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「橋之助、あれ、何」
まるで正気の抜けた手鞠の声が耳に届いた時、水に打たれたように意識が戻った。
狼煙は様々に形を変え、こちらへ状況を伝えようとしてくる。
その読み取れる単語はどれも不穏なもの。
「安芸の本陣に何かあったのだ…!」
目を凝らせど、あまりに遠すぎる。
ここからでは厳島の周りにいくつかの船が停まっている程度の事しか分からない。
それでも狼煙が上がっている屋敷から目を離せずにいる手鞠の横顔に、橋之助は確かな狼狽をみた。
それが何を意味するのかも。
手鞠の心臓が早鐘のような速さで鳴り響いていた。
頭の中で見えない炎が燃え続け、黒々とした煙を吐き出している。
心はもうここになかった。
ただ最悪の光景でだけがまぶたの裏で何度もちらついて。
「橋之助、どうしよう、元就様が」
焦るべきなのか、冷静になるべきなのか分からなかった。
ずいぶん遠くまで来てしまったため、走った所で間に合うかどうか考える事すら難しい。
歩きで二晩かかった山達だ、走ってどれだけ縮められる?
それよりも出来ることは無いのか、味方を送ったり、気持ちを切り替えたり……
「走れ!」
こんがらがって抱えきれなくなった頭に、まるで鋭い矢が刺さった。
振り返ると、橋之助が力強くこの目を見つめていた。
「考えるな手鞠、走れ!俺達の中で万に一つも可能性があるのはお前だけだ!」
「橋之助、」
「…主様が、お前を呼ばぬわけがない!」
その言葉を聞いた瞬間、手鞠が苦しそうに顔を歪めた。
それでも時間をかけて噛み締め、飲み込む。
狼煙の上がる安芸の屋敷へ顔を向け、その姿を目に焼き付けると。
一度だけ、小さくうなずいた。
――――――……
人の記憶がどれほど昔からある物なのかは分からないが、元就には三つの時から記憶があった。
父が背を測ろうと背筋を押し付けた城の柱。
自分ではなく兄を寝かしつける際に母が歌った子守唄。
ただそれだけの記憶であり、他人からすれば幾つの時の記憶か到底分からないだろうに、それでもそれが三歳の記憶だという確信があった。
四歳の時に母が死んだからだ。
その後、十歳の時に父も死んだ。
自分の城を追い出され、縁あって養母の元にたどり着いた時、自分は心身共に疲れきっていた。
幼いながらにその事はよく覚えている。
それでもようやくその存在を認められ、実兄の力を借りながら毛利家の者として舞い戻った矢先。
二十歳の時に兄が死んだ。
兄の遺言を守り、忘れ形見の
と ながら、どうにか生きていた。
が、 があり、 なく。
の時に、 もまた んだ。
「元就様、狼煙が上がりました!」
「……嗚呼」
舞い上がる煙とともに脳裏に蘇った記憶の洪水を、返事一つで打ち消した。
炎と煙はどうにも意識を連れていくからいけない。
没した者の身の回りの品々を焼く際に、何度となく見てきたためだ。
しかし、今は感傷に浸る暇はない。
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