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執務中。
今までまとめていた政略が片付き、頭の中を少しずつ空にしていく作業の最中。
ふと思い立った事がある。
(…あれはどこにいても呼べば来るのか?)
そう言えば戦の喧騒の中でも、半里離れた道の先でも、その名を呼べば手鞠は来た。
いやしかし、さすがに限度があるだろうと目の前の海に向かって。
「おい、手鞠」
と呼ぶと、一瞬の間を開けて。
ざばあっと水飛沫と共に手鞠が水面へ顔を出した。
「わぷっ。
元就様ー、呼んだー?」
「呼ぶはずがなかろう」
「そっかあ、もごっげふ」
つとめて平静を装いながら、手元の紙に「範囲・海中まで」と書き留めた。
――――――…
記録を整理しているついでに数えてみれば、手鞠が来てから丸二月が経とうとしていた。
戦に合わせて兵を拡充している毛利軍にとって、部隊長以下でこれ程長くいる人間は初めてだ。
このところ毎日つきたての餅を食べている以外に日々に変化はないが。
一番槍をさせ、囮に使い、見張りを命じ、駒共の粛清係に連れ出し、と振り返ればそこそこ働いている。
隊列を率いる陣隊長にも顔を覚えられ始めているようで、軍議で手鞠の名前が挙がるようにもなった。
「……与えてみるか」
御堂から出ると、変わらない晴天の光がこの身を包んだ。
今まで居た場所が薄暗いため、どうしても眩しさに目が細くなる。
さて、と口を開いた途中で、威勢のいい声達が耳に飛び込んできた。
大勢の人間が腹の底から声を出し、海辺から投網を引きずり出していた。
その中に件の人間の姿も見つける。
「よーいしょ!よーいしょ!」
「波に持っていかれるぞぉ!もっと引けえ!」
「分かった!」
「引きすぎだ手鞠!他の奴らが引きずられてんだろ!ちょっと待て!」
「……貴様はいつも騒がしいな」
「あ、元就様」
「元就様ぁ!?」
先導して網を引いていた男が元就の姿を見るや、顔色を変えて口をつぐんだ。
他の者達も普段と同じように跪いて頭を垂れようとしたが、網を持っている手を離すわけにもいかず、逡巡している様子で。
構わん、と一言だけ呟いてから手鞠に目を合わせると、しっかり目が合ったのでそのまま踵を返した。
しっかりと後ろを追ってくる足音は聞こえていた。
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