▼
今日はこれを付けて過ごせ、と元就に強要されてから数十分。
手鞠は必死に水面に映る自分と格闘していた。
「ひらひらが前で、紐が後ろで……えーと…」
覆面だか覆布だとか、そういった名前を聞かされたがもう覚えていない。
ただ分かるのは、この紐の両端をうまく後頭部で縛ると、目から下に薄布が下がり、顔が見えなくなるという事だ。
元就は重要な客人が訪れる際に、必ず屋敷の人間にこれを付けさせるのだと女中から聞いた。
しかし、出来るとは言っていない。
「……橋之助ぇー」
半べそをかきながら市右衛門の作業所を訪ねた。
客人が来るので皆朝からバタバタしていて、とても女中に頼める雰囲気ではなかったから。
「おや、手鞠。久しぶりだね」
予想に反して橋之助は見当たらなかったが、市右衛門がいつものように煙管を吹かしていた。
酒に酔っては、以前大きな仕事をした時に元就から与えられたのだと、よく自慢する品だ。
「あ、市右衛門もその布付けてるんだね」
「まあ多少は邪魔だが、しょうがないね。職人は面が割れない方が面倒事も少ない」
「そういうものかー」
手鞠がここに来た時点で何を頼まれるのか分かっていたようで、ちょいちょいと手を振って呼ぶ。
それを見ると嬉しそうに市右衛門の足の間に座った。
「前を見なよ。その姿見さ、そう。何も難しい事じゃないだろう」
「んー……」
布の上の辺を手鞠の鼻の上に当て、位置を調整する。
目の下を通り、耳の後ろで縛ってやれば、すぐに鼻も口もその薄緑の布が覆ってしまった。
ぱちくり、と開くその大きな瞳以外、全て薄布の下に隠れてしまった。
「よし。あまり激しく動くと取れるぞ。気いつけな」
「ありがとう市右衛門」
ぴょい、とその足から抜け出すと、一度振り返り礼を述べた。
そのまま明るい外の世界へ走り出していく手鞠をみつめ、やれやれと煙管の息を吐き出した。
「元就様、つけたよ!」
「騒々しい」
一言で切り捨てたが、布をつけた手鞠の顔を一度確認し、よしと頷いた。
まさかこれだけの構造の服飾を身につけるのに半刻使うとは思わなかった。
「今日限り、客が帰るまで貴様の防衛範囲を安芸の周辺一帯まで広げる。怪しい者がいれば即刻捕えよ」
「はい」
そう告げる間にも、あちこちから来る家臣へ次々と指示を出している。
普段よりも周りが忙しないのは、皆来る客人がどの程度の相手かというのをよく理解しているのだろう。
その割には、「防衛基地がどうの」だとか「土産物への毒味役が云々」など、物騒な言葉が飛び交っているが。
手鞠も言われた通り、普段行かない安芸の周辺まで行く事にした。
prev / next