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「元就様これに乗ってきたんだね。私が行きで来た船だ」
「この船は二人用よ。貴様は泳いで帰れ」
「あ、がんばります」
よーし、と手鞠が体を動かして準備運動をしていると。
「…ほお、名前を覚えてる部下もいるんじゃねえか」
唐突に後ろから声が飛んできた。
手鞠は何のことかと振り向いたが、元就が振り向かずに体を止めたあたり、何か因縁の言葉なのだろうと察する。
「お前は部下の名前も顔も覚えねえような奴だと思ってたんだがなあ」
「………」
その言葉にようやく振り返った元就の顔には。
貼り付けたような微笑があった。
「貴様は計算が出来るか?」
「…あ?」
「この阿呆は罠にかけても囮にしても火薬を背負わせても生き延びる。使い切りの駒よりは、十度繰り返し使える駒の方がお得であろう」
名も覚えるというものよ。
その言葉を聞くや否や、元親の目尻が釣り上がった。
「てめぇ、どこまで部下をコケに――!」
言葉も言い終わらぬまま、猛烈な勢いで抜かれた碇ごと突撃してきた。
それはちょうど元就の額の位置めがけて、突然の速さに瞬きも出来ないようなものだったが。
ガキィン、と鈍い音と振動が響き、攻撃は止まった。
手鞠が槍を抜く方が早かった。
「なっ、手鞠、てめぇ…!」
「?」
巨大な碇の隙間に槍を立てたまま、微動だにしない。
何か言葉を吐こうとしたが、当の本人相手では文句を叫べるわけもなく。
勢いが削がれてしまえば終わり。
元親は舌打ちを一つすると、手鞠の槍を跳ね除けて船の前までひらりと跳んだ。
「…また来るぜ。首洗って待ってな」
そのまま船は出ていったが、元就は振り向きもしなかった
手鞠は手を振っていた。
帰りの船内。
恐ろしい場面に立ち会ってしまい言葉もなく舟を漕ぎ続ける船頭と。
この上なく不機嫌な空気を惜しげもなく出している元就と。
船の船尾に捕まって脚をばたつかせている手鞠がいた。
「元就様戻ってくるの早かったね」
「問題が早に片付いた……手鞠」
「はい?」
「今後二度とあの不愉快な人間を我が国に入れるでない」
「はい」
「即刻打ち捨てろ。貴様の見回りの範囲を厳島まで広げる」
「はーい」
見られた。
あの男に。
手鞠が自分を護った瞬間。
わずかに自分が目を見開いたのを。
「………不愉快よ」
すべての人間が苦い思いを胃に収めている中で。
手鞠だけ、やるべき仕事が増えたことに喜んでいた。
そんな一日。
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