「けどなあ、ほれ、見てみ」
ふっと市丸様がボウルの下に手を入れ、外へ向かってひっくり返した。
ボウルの中の液体は周囲に振りまかれ、月の光をキラキラ反射させながら音もなく落ちていった。
「誰かの世界なんてあっちゅう間に壊れてしまうやろ」
そう呟く市丸様の声はとても悲しそうで、どこか笑っているようにも聞こえる。
手元に戻ってきたボウルはわずかな水滴を残すだけで、もう何も入っていない。
何も入っていない空っぽのボウルは、市丸様の髪と同じ色だということに気付いた。
空っぽなんだろうか、この人も。
「そんなら最初から自分の世界なんか持っとらん方がええと思わん?」
「思わんなー」
おもむろにこちらを見る市丸様に視線は返さないで、空っぽになったボウルを何となく頭にかぶったり、叩いたりしてみた。
「中のものが壊れて空っぽになったらね、また違うものを入れられるよ。それにほらほら」
さかさまにしたボウルの後ろを爪で叩くと、コォンコォンと涼やかな音が響いた。
「空っぽになっても私の世界は結構いい音がするよ。空っぽなのもこれはこれでね、良いこともあるの」
ねー、と笑うと、市丸様も本当に困ったという顔で笑った。
「…そないなこと言われたら、もうひねくれられんなあ僕」
「それは困った」
「ほんまやで、僕のアイデンティティやったのに」
「あらー」
いつもよりもっと目を細めて私の頭をなでてくれた。
ええ世界を持っとる、と少しだけ羨ましそうに言った。
「…もっと昔の君に会うてみたかったなあ」
「多分今とあんまり変わらないよ」
「それもそうや」
「もっと昔の市丸様に会ってみたかったなあ」
「多分今と全っ然変わっとらんよ」
「それもそうだ」
そう言って笑いながら二人でコォンコォンとボウルを叩いていると、ふと市丸様が顔を上げた。
「あ、もう一人おったわ。絶対昔と変わっとらん子」
「誰?」
「……おい、名無し」
昨日と同じように後ろから聞こえてきた声を理解したとき、もしかしたらずっとずっと昔に私たちは会ったことがあったのかもなあと考えた。
今と同じように、一緒の場所にいながら、てんでバラバラな望遠鏡で世界を見ていたのかも知れない。
黒い画用紙を取り去った月は今日も白と銀を混ぜ合わせた色でこちらを明るく照らしていた。
end.
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