悩んでいることがある、とぽつりと呟くと、今まさに僕を抱かんとしていた名無しの腕が目の前で止まった。
同時に名無しの目の動きも止まった。
世でいう「硬直」、米国的なら「フリーズ」だろう。
あまりの驚きだったのか尚も名無しはしばらくそのままでいて、僕がおとなしく待っているとゆっくり腕を動かして正面で正座をした。
真面目に人の話を聞く体勢だ。
窓の外は今日行くはずだった任務を流してくれた大雨と突風が吹き荒れている。



「…大きいこと?」

「僕にとっては」



視線を合わせるために椅子の上に立っている僕を、名無しが心配そうに覗き込んだ。
一度光った雷が鳴り終わるのを待って、静かに呟く。



「…夢を見るんだ」



一度目は、名無しは何も言わなかった。
聞き取れなかったというより、聞き取ったけど意味を繋げるのに苦労しているようだ。



「ゆ、め?」

「…そう。夢を見るんだ」



別の他人なら、何だそんなこととあっさり笑えていただろう。
けれど言葉が最後の最後で少し掠れて、そこから感じ取った僕の感情に口を閉じたんだ。
僕と名無しの間で、「夢」というものは普通のソレとは少し違う。
もっと現実的なものを孕んでいる。

幻術を扱う者として、敵のそれにかからないようそれなりの精神の修行というものはしたつもりだ。
相手の幻術が棒にも箸にもかからないような図太い性格だったらまだしも、とうてい僕はそんな大層な性格は持っていなかったから尚更だ。
だから眠ったとしても幻覚の一種である「夢」というものは、ずっと前から見ることがなくなった。
僕にとって眠るということは、暗い部屋に一瞬顔を覗かせるだけで、すぐにまた明かりのついた長い廊下に戻るようなものだたった。

だから。



「…もう何日も、『夢』を見ているんだ」



だから、僕が眠っているときに見るものがあるならばそれは「夢」じゃない。
夢という名の「記憶」だ。
僕の中にある「以前の記憶」だ。



「どんな場面を見るの」

「…いろいろあるよ。木の上に座っていたり、川下で流れてくる葉を見ていたり、小さな研究室で手紙を書いていたり、クルミを食べていたり」

「普通の景色なんだ」

「そう…だね」



この忌々しい、何度も生まれ変わりを繰り返す呪われた体の付属品。
とっくに忘れたはずの前世の残骸。


 


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