「『前の』記憶かな」

「前のかも知れないし、前の前のかも知れない。ひょっとしたら一番最初のかも知れない。もう僕には分からないからね」



人の記憶力には限界がある。
何回もの人生を覚えていられるほどの力はない。
だから必要最低限のことだけを残して、昔のことはほとんど忘れていく。
それでも時々忘れる方へ選んで切り捨てた記憶が、眠っている最中に蘇ってくることがある。
僕にとっての、これ以上ない悪夢として。

うつ向いて固く口を噛み締めたとき、ふと名無しの手が頬を撫でた。
僕の悪夢を知っている彼女は静かに僕に触れていたけれど、やがて至極純粋に聞いた。



「マーモンは、どうしてそれを『悪夢』だって言うの?」

「どうして?」

「そう。死ぬ場面だとか殺す場面だとかじゃなくて、普通に昔の風景を思い出すだけなのに、『悪い』夢って言うの?」



心からの不思議を持って僕を見つめる名無しの瞳を見ながら、頬に添えられた手に手を重ねた。
大きさの違うこの手は何度僕に触れただろう。
そうだね、君には言っていなかった。
『悪夢』の意味を。



「…どの夢の場面でも、僕は一人だからだよ」



名無しの瞳が大きく開いた。
木の上にいても川下を眺めていても手紙を書いていてもクルミを食べていても、決して僕以外の誰かが夢に出てくることはない。
それが今まで生きてきた僕の記憶ならば、きっとそんな風に生きてきたんだろう。



「今」の僕には君がいてくれるけど。
「次」の僕には誰がいてくれるんだろう。



それを、思い知ってしまうから。

そう呟き終えた僕を名無しはしばらく見つめていたけれど、おもむろに体を持ち上げて胸に抱いた。



「…名無し?」



いきなり抱きしめられて名前を呼んだけれど、名無しの服に声が吸収されてくぐもる。
体が小さいとこういう時ろくな抵抗は出来ない。



「私の悩みも聞いてくれる?」



そう静かに言った。
静かだけど僕の時とは違う、決してか細くはなく、芯のある声。



「最近夢を見るんだ。いつも熟睡するから夢は見ないのに」

「…うん」

「夢の中にはね、私以外の誰も姿が出てこないの。一人の夢」



名無しの体にくっついているから、自分の中から声が聞こえてくるような不思議な感じがする。
さっきの僕と同じ言葉なのに、どこか名無しの口調は穏やかで微塵も不安なんか感じ取れなかった。


 


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bkm
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