「ねえザンザス君、私はザンザス君の名前のどこか欠片を聞いただけでザンザス君の名前が出てくるよ。ザンザス君の名前を聞いたら、世界でただ一人ザンザス君の顔を思い出せるよ。笑った顔も怒った顔も今まで話してきたこと全部ザンザス君っていう名前と一緒に浮かんでくるよ。名前ってきっとそれだけでいいはずだよ、ザンザス君を越えていいはずも消していいはずもないよ。
それだけが名前じゃ、だめ?」



体の奥底に溜まる言葉。
水のように入り込んでくる言葉。
こらえ切れない感情に、歯を食いしばって目の前の服にすがりついた。
何度もうなずいてしまいたかった。
俺の中にある最後の人らしい感情の全てを持ってして、その言葉を受け入れてしまいたかった。
お前が言うとおりの俺が存在する意味を、心の底から信じたかった。



(ザンザス)



あの母親の呼び声には、俺だけを思う気持ちがほんのわずかでもきっとあったと。
ずっとずっと、思いたかった。
だが。



「…駄目、だ…」



そんなことは許されない、今まで俺の全てを築いていたものをかなぐり捨てて別の世界を生きられるほど俺は強くない。
心の底にこびりついた母親の言葉を俺は到底剥がせない。
名前の呪いを憎んでも、呪いをかけた存在を俺は生涯憎むことは出来ないだろう。
名無しは俺の最後の言葉を聞いて、悲しそうに目を伏せた。
そしてもう一度開いたとき、それはどこまでも優しい意志を乗せていた。



「分かったよ」



川の流れに名無しの散った髪と服の裾がたゆたう。
見下ろす俺の顔を静かに両手で包んで微笑むこの存在を、俺は一度も汚いと思ったことはない。



「じゃあ全部ここに置いていったらいいよ。今までザンザス君に都合が悪かった世界も、それを教えちゃった私も、聞きたくなかった言葉もみんなみんな、置いて流していったらいいよ。流して忘れて、もう戻ってこなかったらいいよ。そうしたらザンザス君は今よりもっと強くなれるよ」



そう笑っていった名無しと視線を交わせずに、服を握ったままその首筋に頭をもたげた。
そのどこまでも透き通った犠牲を俺が呑むだろうことは心の底で分かっていた。
喉の奥から漏れる嗚咽は悲しみなんかではないと信じ込もうとしていた。
お前が一滴でも俺の中に入ればこの炎は消えてしまいそうだったから。
俺の憎しみと一緒に流れていけば、お前はもう二度とお前じゃなくなるだろう。
それでも俺はきっと、それをさせるだろう。



今度こそさようならだね



雨の水か川の水か分からないものが頬を伝っている俺の頭を抱いた上から、静かにそんな声が聞こえてきた。
肯定の証しに、俺は目の前の白を強く強く握った。





水の残思



俺の最後の人らしい部分と時間をお前にくれてやれたことだけは。

それだけは。




prev next

bkm
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -