確かに覚えている。
あの時目と目を見て、こんな卑しい名前をあんたが呼んだ時の。
あの時の体の震えを。
確かに。







あれは私がまだ十二になった頃、その日の食べ物を探してあちこちの地区を渡り歩くのが日課だった
効率よく探すため、ギンとはなるべく正反対の方向に行く。
木の実だったり魚だったり、大体はどうにか調達する事が出来た。



「ふう……」



その日は探しても探しても中々見付からなくて、探すのに夢中になりすぎたあまり自分が八十番地区の境界線を越えそうだったことに気づいた。
あの治安が最も悪いと言われる最悪の地区に。



「あ、危な……」



一歩でも足を踏みいれればどうなるか分かったもんじゃない。
八十番地区に生まれついた物はその場所から出られないと聞く。



「他の地区へ行っちゃえば良いのに」



以前にそうギンへ言ったら。



「そうもいかへんやろ」

「何でよ?」

「八十番地区くらいになると狂った奴がごまんとおるんやで。回りの地区がそないなとこから来た奴を追い払わんはずないやろ」

「ああ、他の地区へ『行けない』の」

「そ。八十番地区はほとんど人おらんから、逆に目立つんやろ。誰にも見られん抜け道とかでもあれば話は別やけど」



だから絶対八十番地区へ入るなって言われてた。
出られなくなるから。
人の目は鉄格子よりもずっと厄介に、誰かをそこへ縛りつけるらしい。


危ういところで八十番地区に入るのを免れたから、危ない奴が来る前に退散しようとその境界線に背を向けた時。



「きゃああああ!虚よあお!!」



「虚!?」



声の方を振り向くと、私と変わらないくらいの子どもが母親にしがみついて叫んでいた。
その子の視線の先に、大型の虚が今にも襲いかからんばかりに爪を振り上げている。

やばい、とだけ頭が理解した。
大した力のない私達にとって、現世や周囲から入り込んできた虚に出会うことほど恐ろしいことはない。

私がすぐさま逃げようとした中、もうすでに虚は標的を決めていた。
近くの木の影にいる小さな女の子の前に立ちはだかっている。
木でその子の姿全部は見えなかったけれど、薄い色の着物から伸びた足が立ちすくんでいるのは見てとれた。
危険だと分かっていた。
それでも、虚が右腕を振り上げた瞬間、体が勝手に動いていた。



「危ない!」



とっさに慌ててその子の体に飛び付いて、頭を抱えてその場に倒れこんだ。



「っきゃ…」



頭上を大きな物が凄い速さで通過した風を感じた次の瞬間には、私達の頭の上スレスレに虚の右腕がめり込んだ。

メキメキと音を立てて木が倒れる。




「逃げるのよ!早く!」



有無を言わさずにその子の手を握ったまま走り出した。
すぐに後ろから虚の大きな足音が聞こえてきたけど、私は誰も知らない細い獣道を生活で知っていたからそこを通ってうまくまけた。

段々と虚が遠ざかっていくような気がしたけれどそれでも怖くて、小さな手を握ったまま二地区も三地区も逃げた。
七十七地区ほどまで来てようやく足を止められた。




「はあ…はあ…ここまで…っ来れば……」



大丈夫、と言いたかったけれど息が続かない。
胸と脇腹と喉が痛みを通り越して痺れていた。
そんな状態で手を握っていたその子は、



「…ありがとうございます…」



私の後ろで、息に一つの乱れもなくそう言った。
そう言えば今までまともにこの子の姿を見ていない。

最初は木に隠れていたし、逃げてるときは振り向く余裕なんて無かったから。



「別に…何となくだから礼を言われる筋合いも…はあ……」



ようやく落ち着いてきた。
肩の動きも小さくなってきたので、ふう、と一呼吸置いてから。



「私は乱菊って言うの。あんたは―――」




そう言って振り向いた瞬間。






あんたを、初めて見た瞬間。






世界が止まったように感じた。



 



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