違うのか。
私が動けなくなったのか。
目が、視線が、その姿から。
離せなくなっただけなのか。
恐怖すら感じるほどに美しいその子は。
「私は、水無月葵と申します。乱菊」
どうしようもなく澄んだ声で私の名を呼んだ。
聞いたこともない整った口調で。
体の震えが止まらない。
深すぎる瞳を。
不思議な色の髪を。
透き通る肌を。
目が焼き付けることを止めなくて。
思った。
この子は、生きていちゃいけない。
こんな世界に、生きていちゃいけない。
こんな場所に生きてちゃいけない。
当たり前のように。
そう思ったのよ。
「…あの」
「あ、」
不意に声を出したその子に意識が戻る。
葵と名乗ったその子はただ静かに大きな瞳で私を見上げていた。
「な、何?」
「先ほどはありがとうございました」
「ああ…もう良いのよ。体が勝手に動いただけなんだから」
むしろこんな遠くまで連れてきちゃって何だか悪いわ。
…ってこの子、どこに住んでたのかしら。
八十番地区から連れてきちゃったけど…何かあっさりだったし、ギンが言っていたことと何か違ってる気もするし。
「あんた、家どこ?」
「家は…ありません。気がついたらあの地区にいました」
…ない?
「…あんたも、捨てられたの?」
そう率直に聞くと、葵は曖昧に微笑んだ。
儚い笑みだった。
イエスなのかノーなのかそれからは分からなかったけど、もうその事は聞かないでおいた。
私よりずっと小さい葵。
まだ八つくらいなのに。
「これからどこに行くのよ?」
「そうですね…どこかには行ってみます。前にいた場所ではないところに」
「ご飯とかは?」
「とりあえず、何かの見よう見まねをしてみます。今まで食事をどうしていたのか、少し曖昧で……」
きれいな敬語。
一体、どういう生活してきたのかしら。
丈の短い淡い色の浴衣を着ているだけだけど、身なりはまとも。
こんな子に帰る場所が無いだなんて。
一瞬ギンと待ち合わせしている場所に連れてってみようかとも考えたけど、あの狐が易々と他人を受け入れるはずがなかった。
人でなくても、子犬一匹拾うことを許さない奴だし。
「そう……じゃあね」
「はい、ありがとうございました」
そう言うと、葵は視線を遠いどこかへ向けた。
遠い遠いどこか。
その目が、何だか来ない迎えを待っている子どものようで、数年前の私と重なった。
右も左も分からない道を歩いていくその小さな体が、迫り来る夕闇に飲み込まれるのを待っているようで。
遠くを見つめるその視線の先に見ているものを自分が見ることは許されないようで。
それでも。
その子を一人に、したくなくて。
「……ちょっと待って!」
気がついたらその子の右腕を掴んでいた。
「……はい?」
世界が橙色に染まる道を、並んで歩く影が二つ。
一人は十二ほどの少女。
手を繋いでいるもう一人は八つほどの少女。
「…良いんですか?」
「良いのよ、文句言って来たらあの狐黙らせてやるわ。ああ動物じゃなくて、もう一人いんのよ銀髪の奴が。超気に食わないけど」
「銀髪…?」
「そう、めちゃくちゃ意地悪で性格悪い奴」
「知り合いに銀髪の方はいますが…性格は正反対です」
「じゃあギャップについていけないかもね。大丈夫よ、まだ喧嘩は私の方が強いから」
えへん、と胸をはる乱菊を見つめる葵。
その視線には少しの不安さと、初めて握っている手の温もりへの戸惑いがあった。
「…あの、本当に…」
「良いって言ってんでしょ!不幸な者は不幸な物同士、一緒に生きてくのが決まりなの。負の数と負の数で正の数になるってどっかの大人が言ってるの聞いたわ」
「…負の数が三つだと負の数になりません?」
「……良いの!」
(えーとだから、あんたさえ迷惑じゃなかったら一緒にその…来ないかって言うか…別にどこかに売り飛ばすとかそういうんじゃなくて、あーもう要するに!)
(……一緒に行かない?)
あの時、もう一度差し出された右手。
それが葵にどんなに優しく、美しく見えたかを、乱菊は知らない。
誤魔化すためか早足になった乱菊の隣で。
嬉しそうに葵が微笑んだ。
繋いでいる手は
温かかった。
← →
back