「空も行きましたね」

「はい。あいつもきっと大丈ー」


ズデーン!


廊下の遠くから思いっきり転んだ音が聞こえてきた。



「…最後まで空らしいと言いますか」

「らし、すぎるでしょうあいつ…」



やれやれ、と苦笑しながら辺りを見渡すと、もう本当に誰もいない。
葵と、殺那だけの空間。



「一番最初に出会ったのが殺那ですから、やはり最後もあなたですね」

「はは、長い間すみません。出会った頃はずいぶん生意気だったでしょうが……」



誰かの下につくなんて考えもしなかった、と小さく口から漏れた。
葵と出会ったあの頃の自分の青さを思い出して気恥ずかしくなるが、それも致し方ない。




「殺那の長い髪が素敵だった頃ですか。もう伸ばしは?」

「いえ、あれは伸びきってしまえば良いんですが、その過程が中々キツくて……」



どうやら願掛けの最中もいくらか辛いものがあったようだ。
遠い目をしながらも苦労が伺える。

やがてそんな考えからもフッと現実に戻ってきて、葵の正面に立った。






「どうかしましたか」

「……俺は、葵様の役に立てたのでしょうか」



いつもそのことばかりを考えてきた。
誰よりも尊ぶ存在に、自分はどんな大きさで映っていたのか。



「もちろんですよ、本当に助けて頂きました」

「…そう言って下さると幸いです」



瞬間、殺那の浮かべたわずかな表情を葵は見逃さなかった。
ずっと前から自分の副隊長が浮かべる、どこか悲しそうな笑み。

部下の前では気丈な強さを変えなくとも、こうして話している時だけ時折現れる苦しそうな嘲笑。



それが意味することはずいぶん前から知っていた。
けれど伝えるタイミングが分からないまま、今の今まで来てしまった。





「俺は葵様の下で働けて、幸せでした」

「副隊長であれて、ではなく?」



いえ、と小さく苦笑した。
葵はどんな存在にも平等だ。
それが副隊長であれ、隊員であれ、そうだろうと思っていた。
だから副隊長という所を誇示しなかった。

葵にとって肩書きは関係ない、それならあまり自分にそれを貼り付けないでおこうと決めていた。
長い間ずっと。

副隊長として、ではなく。





「俺は、葵様の部下の一人で良いんです」






そう言って笑うことを覚えた。
主の平等を崩さない存在であることを覚えた。
本当に心を占めている思いは、おこがましいことだから。

認めてほしいだなんて、図々しいにも程がある。
少しでも役立てる存在であれたら、もう、十分じゃないか。





「殺那」



不意に名前を呼ばれて顔を上げた。
少し低い位置から見上げる葵の瞳は、どこまでも真っ直ぐ自分を見つめてきた。



「貴方は甘えなれてなくていけませんね」

「え…?」

「あなたが何を思っていても私が口を挟めることではありませんし、言い方によればあなたがただの部下の一人であるとも、きっと言えます」



ですが、とその頬へ静かに両手を添えて。








「あなたが副隊長であることが、私の誇りでしたよ。殺那」








殺那。

名前が優しく体に染み入る。
暖かさが頬を伝って下りてくる。
過ぎたことなんだと思っていた、こんな事を言ってもらうのは。

どこまでも強い人だったから、せめて力になるのにずっと必死で。








本当に望んでいたことは全て見透かされていたのに。










「…葵様、俺は…」

「はい」





ああ、この体はもう少しだけ涙をこらえてくれないだろうか。






「俺はあなたの副隊長であれて、幸せでした…!」





滲む視界、そこに映る葵の顔は、とても穏やかな瞳をして頷いた。
そうして静かにその頬から両手を離すと、殺那はキッと溢れてきた涙を振り切って歩き出す。

扉の前までたどり着き、再び真っ直ぐ葵を見つめた。





「ありがとうございました!」



そう言って、彼らしい的確な礼をした。
そして迷うことなく、強い瞳の まま扉から出ていった。







最後に残ったのは、葵一人。
どこかから小鳥の鳴く声が聞こえる。

ぐるりと今まで過ごした隊室内を見渡し、あそこにあの机、あそこにどの棚と思い出してみた。
何一つ忘れていなかった。

懐に手紙が入っている感触を確認してから床に置いていた贈り物の箱を持つと、いつもの早くも遅くもない速さで執務室へと向かう。
最初宴会を行った、途中卯の花と和解した、最後美花の刀が畳に突き刺さったこの部屋。

全てが変わっていないことを確認して、そのまま扉へと足を向けた。



一度だけ扉の前で神妙な面持ちで振り返り。






「お世話になりました」






誰もいない広い隊室へ長く深く一礼した後。
最後の一人が部屋を後にした。



 



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