だいぶ遠くまで来たことを確認して一本の木の下で止まった。
薄い雪が降っていて、少し寒かった。
私を助け出してくれたその子は寒がる素振りも見せずに、少しだけ遠くを見ていた。
誰かが追いかけてくる様子はない。

そう分かるのと同時に、私はようやく今まで起きたことの恐怖と奇跡を感じた。


私、助かったんだ。

あの場所から。




途端に体が震え出して、情けないことに座り込んでしまった。
助かった喜びと、あの時一瞬でも味わった絶望と、これから先どこへどう行けば良いのかも分からない恐怖。
それらがいっぺんに襲ってきて思わず泣いた私に、その子は「もう大丈夫ですよ」と言った。

優しい声だった。





「あなた…誰なの?」

「私は水無月葵と言います。あなたは?」

「あ…」



ようやく墓穴に気づく。
こんな名前を知られたくない、その上私には名字も無かった。
言いよどんでいた時、ふと頭上にある木へ目が行った。
それは真っ赤な花を付けた、椿の木。

とっさに口が動いた。





「わ、私は花椿……み、っか…」


「…み、か。美花ですか?」



美しい花と書きますか?と聞かれても私は漢字なんて知らなかった。
葵と言う女の子が雪に書いてくれた名前は『花椿美花』。
そう、それと分からないままにうなずくと。





「とても綺麗な名前ですね」





そう言って、花がほころぶように微笑んだ。
生まれて初めて何かを、美しいと思った。

透き通るような肌。
不思議な色の瞳。
この世界の雪と水晶を寄せ集めて作られたような、そんな女の子。



葵みたいになれたら、私はこんな場所でも強く生きていけるのかな。
そう思った時。






「葵ー、どこなのー?」





遠いどこかから葵を呼ぶ声が聞こえた。
姿は見えないけれど、声をあげて探しているようだ。



「もう行かなくてはいけませんね。さようなら、美花さん」

「あ、うん。さよなら……」



小さく手を振ると、葵も手を振り返した。
その手がずっと細くて、けれど物怖じもせずに見ず知らずの私なんかを助けに来て。



葵みたいに、なりたいと。

心の底からそう思った。






それから私は治安の良い地区へ渡り歩いて、その中の一つの家に迎え入れてもらえることになった。
死神の誘いを受けたのはそれからしばらく経ってからのことだ。

瀞霊廷で働けると聞いて、家のためになるから私はすぐに霊術院に入って入隊した。
そこで配属された十番隊に。





葵が、いた。







最初は信じられなくて何度もその顔を見てしまった。
けれど幼い頃に会った姿と何も変わっていなくて、すぐに現実のことなんだと受け入れた。
純粋に嬉しかった。
あの時言えなかったお礼が言えると思った、けれど。





「花椿さん、この書類お願いします」

「あ、はい…」



葵が仕事以外で私に話しかけてくることはなかった。
私が入った時からすでに葵は八席になっていて、無闇に声をかけられる相手でもない。
何度も私を正面から見ているのに。

そして。



「葵ー!お昼食べるわよー!」

「うーるさいっちゅうねん」

「はい、今行きます」



葵の側にはいつも金色と銀色がいた。
金色の名前は松本乱菊、銀色の名前は市丸ギン。

葵はその二人のもので、二人は葵のものだった。
入り込む余地さえない。



ああ葵は、私を忘れたのか。

そうか、何だ。

勝手に舞い上がっていた自分が馬鹿みたいだ。



ただお礼が言いたかっただけのはずなのに、どうしてこんなに地に落ちたような気分になるのだろう。

向こうは何もしていない。
思い込んだ自分が勝手に裏切られたように感じているだけ。




それを分かっていて、いや、分かってしまっていることが。

何より嫌だった。





やり場のないこの怒りや憤りを何かにぶつけることもできず。
私はあの日葵を部屋に呼び出した。
復讐という名を付けるにはあまりにも矮小で、報われない行動。







そして私は、泣きたいような気持ちで自分の腕を斬りつけた。

消えたいような気持ちで辺り一帯に聞こえるよう叫んだ。

そこで葵が少しでも驚いたりうろたえたりすれば私の気持ちは済んだのかも知れないのに、やっぱり、あの頃から強さは変わらないままで。
表情を変えすらしない。



 



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