「じゃあお願い!今だけ霊圧抑えてて!」
「今だけ…ですか?」
「今だけで良いの。理由は聞かないで!」
良くわからない内容だったけれど、乱菊の願いということもあって従うことにした。
ただの席官だった頃と同じくらいに制御装置の威力を強める。
「これで良いんですね」
「そう。わざわざ悪いわ―」
そこまで言いかけたとき、今度は比較的静かに零番隊隊室の扉が開いた。
そこにいたのは、ギン。
「こっちは用意終わったで」
「あらギン、早かったわね。じゃあ行きましょうか葵」
「行く?」
「あんたのとこの執務室よ」
葵を半ば無理矢理立たせて引きずるように部屋の奥壁にある執務室の扉へ向かう。
零番隊の仕事部屋の奥にある執務室は他の隊と違い、畳が敷かれただけの簡素な部屋。
以前に宴会をやった場所だから乱菊も知っているのだろう。
それでも何をしようとしているのかは少しも分からない。
「そんなに不思議そうにしなくて良いってば。はーい葵入りまーす」
そう誰かに言って葵を開けた扉の隙間から執務室へ滑り込ませ、それと同時にバタンッと再び閉める。
ほとんど強制的に放り込んだ形。
「…松本様、葵様をどうなさるんです?」
「そんなに心配しなくて大丈夫よ。ちょっとした感動の1シーンだから」
乱菊はそう言ってカラカラ笑いながら、ね?と入り口に立っているギンと視線を合わせて互いに微笑んだ。
「私達もいい加減、親孝行しなくちゃね」
(一体どうしたんだろう乱菊は…)
力づくで押し込められた上に勢いが付きすぎて転んでしまった葵は、乱菊の行動の意味が分からずに扉を振り返って立ち上がった。
何がしたかったのか考える、前に。
背後で何かの気配がした。
「……葵?」
「え?」
声の方へ振り返った葵の目の前にいたのは。
卯ノ花、だった。
葵自身も驚いて目を見開いたけれど、卯ノ花はそれよりもずっとずっと信じられないと言う顔をしていた。
ただ、そんな顔はほんの一瞬で、すぐにその目からは涙が溢れた。
「……卯ノ、は」
最後の言葉まで言いきる前に。
葵は卯ノ花の腕の中にいた。
「ごめんなさい…ごめんなさい葵…っ」
見慣れた四番隊の隊長服と懐かしいその香りに、抱きしめられているのだと気づく。
一度だけ。
卯ノ花に抱きしめられたのはまだ幼い頃に一度だけ。
眠ってしまった自分を部屋へ運ぶために抱き上げた、その一度だけ。
初めて無遠慮に自分に触れた卯ノ花の腕は、その声と一緒に震えていた。
ぽたり、ぽたりと彼女が名前を呼んで謝るたびにその目からは涙が落ちる。
「あなたを信じなくて…ごめんなさい…」
ああ、もうその一言だけで十分なんだ。
葵と呼んでくれただけで十分なんだ。
たった一人の子どものために泣くだなんて、日々消えていく患者の命を看取る四番隊の隊長らしくもない。
「…もう、良いんです…」
少しも苦しくない自分を抱きしめる腕に触れ、静かに顔を上げた。
後悔と自責しかない涙を流す卯ノ花の瞳が見えた。
嫌われても失望されてもいい。
ただ、そんな涙だけは流してほしくなかった。
「…良いんです、だから、泣かないでください」
「葵……」
卯ノ花の瞳へ静かに笑う。
穏やかで優しい葵だけの笑顔。
何も知らないくせに自分を傷つけた、手を振り払った者にさえそんな笑顔を浮かべられるのか。
そう思うと卯ノ花の胸は余計に苦しくなってしまう。
この子の慈悲深さ、そして、自分自身への執着のなさに。
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