二.




――あ〜、くそ、やる気がでねえ

 つまらない授業を早く終えたいのは野上の取り巻きのうちの一人、カトウだった。絶え間なく襲ってくる睡魔と戦いながら、カトウはシャーペンを走らせる。

――ダメだ、ねみぃ……

 シャーペンの芯が、あらぬ方向へとノートの上を走り、やがてボキリと折れた。舌打ち交じりに無駄な線を消そうと消しゴムに手を伸ばす。ふと、視線を感じてカトウはその顔を持ち上げた。

――あん?

 雛木、だった。隣にいる雛木がこちらを横目で見つめている。

 いつもなら消しゴムのカスをまるめた固まりを投げつけているところだが……、雛木の、紫がかった深い色合いの瞳にとらえられて何も、考えられなくなった。

 目を細めながらこちらをじっと見つめる雛木の瞳は、長い睫毛に縁取られており、侵し難い艶めかしさを纏っているように感じた。カトウは思わずどぎまぎとしながらもその瞳を見つめ返していた。

 やがて雛木がその形のいい、半開きの唇を笑みの形に歪めて妖しく笑う。

「っ……」

 カトウは思わず大袈裟なまでに目を逸らせていつもは自分から見る事は絶対にしない教科書に目をやった。

――嘘だろ、何見とれてんだ、俺……

 そう思いつつももう一度雛木を見ると、雛木はもうこっちを見てなどはいなかった。



「何か雛木、変わったね」

 昼食の時、女子生徒がぽつりと呟いた何気ない一言に一同が大袈裟なまでにビクついた。一様に口籠って見せるその姿から、皆やはり雛木の変化に戸惑っているのだと言う事が分かる。

「ンなことねーよ。眼鏡無くなっただけだべ」

 野上だけは、いつもと同じ調子で(そう振舞っているだけかもしれないが)言うのだった。

「そう? 何かやけにイヤらしい感じしない? 色っぽいっていうか〜」
「ばーか、男だぞありゃ。お前が僻んでどーすんの」

 野上が彼女の頭を軽く小突きながら言うと、彼女は「僻んでねえし」と返して見せる。

 それから、体育の時間、サッカーをしていて泥がはねたのが気になったので野上は仲間達から離れて一人手を洗っていた。

――どいつもこいつも、一体何怯えてやがんだよ。昨日あんなとこ置き去りにした事に対する罪悪感つーか後ろめたさみたいので、パニくってんだよな……きっと

 流れて来る水に手を浸しながら野上がそんな風に考えていると背後から小さな声がした。紛れも無く自分の名前を呼んでいる……。

「野上くん」

 雛木、だった。何故か心の中を読まれたんじゃないか、と馬鹿な事を考えてしまって野上はのけぞった。

「ひ、雛木……」
「ごめんね。転んじゃったの、隣いいかな」

 こちらが了承する間もなく、雛木は隣の水道で擦ったのだと思われるその白い腕を洗い始めた。

「――……」

 何故か言葉を失ってしまう。雛木は長い睫毛を伏せて静かに腕に付着した泥やら血やらを洗い流している。細い、今にも折れてしまいそうな棒の様な腕だった。そして彼女と同じくらい白い色をしていて、透けそうな程だ。何故か強烈に触れてみたい、と思い手を伸ばした。が、雛木がそこで顔を上げたので我に返った。

「――野上くん?」
「……っ」

 振り切るようにして野上はその場から駆け出してしまった……。

「ねえ、カトウくん」

 一人きりで歩いていたカトウは、背後から呼び止められて思わず足を止めた。恐る恐る振り返る。

「……一人なの? 僕とお話ししない?」
「な……んで、てめえなんか」

 ふらふらと眩暈がした。雛木はカトウのすぐ傍までやってくるとふっと笑って見せた。雛木からは綿菓子のような甘い香りが漂った。雛木が近づくと香りは益々強くなった。

「カトウくん。……カトウくんは佐野くんと仲よしだよね」

 佐野、とはいつも一緒に雛木をいじめる連中の一人で、キレると何をしでかすやら分からない危ないタイプの奴だ。何となく一緒にはいるものの、あまり仲がいいとは思われたくないのが本音だった。

「それが、何だよ」
「さっきの授業中、こんな手紙が佐野くんからきて」

 怪しむような表情でそれを受け取ると、確かに佐野の字で、意味の分からない事がびっしりと書かれている。要約すると、話があるから、昨日監禁したあの場所へ来いとのこと。

 読みながら何故か、きっとこいつは雛木に何かするつもりなんだろうとすぐに思った。

「――ねえカトウくん」

 雛木が両の目を潤ませながら何か訴えるようにカトウを見上げた。

「僕の事助けてよ……ほんとはカトウくんはいい人なんでしょ。悪い人なんかじゃないよ」
「な、何憶測で物を言ってるんだよ……」

 カトウが視線を泳がせながら言うと、雛木はカトウに抱きつきながらもう一度はらはらと泣いて見せた。

「助けてよ……頼れる人なんかいないよ――、カトウくん」

 甘い香りが一層強くなる。カトウがごくり、と唾を呑んだ。自分の胸元で雛木がゆっくりと顔を上げてこちらを見つめる。

「だから、ね……」
「馬鹿野郎、人が来るだろ」
「……そっちなら見られないよ?」

 雛木がちらっと視線をすぐ傍の視聴覚室へと流した。カトウはもう一度せり上がる唾を飲み込んで、雛木の両肩を強く掴んだ。

「い、一回だけ、な……黙っててくれよ……」

 雛木が胸元に顔をうずめながら微かに微笑んだ。それが自身の破滅を招く、恐ろしい了承とは知らずに。


 次の日、学校は静かな混乱状態にあった。カトウと、佐野が、いなくなった。二人が校舎の外で激しく口論するのを見た生徒は何人か見たらしいのだが、それ以降二人の足取りがぷっつりと文字通り分からなくなったのだ。

 それを聞いた野上は何故か直感的に雛木が絡んでいると思った――野上は無言で雛木の机を見た。雛木は素知らぬ顔で、腰掛けたままでいる。

「でさ、カトウの親も、佐野の親も……捜索願出してるんだって」
「案外、すげえ近くにいるんじゃねえの?」
「さあなあ」
「野上? おおい、野上?」

 他の生徒に呼びかけられて野上がはっと我に返ったようだった。

「あ……わり、何?」
「カトウと佐野だよ。どこ、行ったんだろうな……」

 雛木はやはり他人事のように、涼しげな表情のままだった。

「ねえ、野上くん……」

 野上がぼーっと座っていると、消え入りそうな程小さな声で囁く声が聞こえた。すぐにその主が誰か分かり、野上は返事するのも億劫そうに視線だけをよこした。雛木がプリントを抱えて立っている。

「――ちょっと、いいかな」

 雛木が微笑むと、プリントを野上の机の上に置いて接近してくる。

「今度のボランティアの、出欠なんだけどね……」

 雛木がプリントを指しながらわざとらしいくらいに野上の傍にまで寄って来る。砂糖菓子のような、甘ったるい匂いがした。彼女がつけている香水とは違う、作り物ではない香りだと思った。














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