08
三時の、休憩。
いつもの喫煙――伊沢はニコチン切れ特有の、まるで低血糖でもおこした人間みたいにふらつくその足で喫煙所への道のりを歩いていた。
――何だ? 単なるニコチン不足か? それとも糖分不足?
何度も何度も襲いかかってくる眩暈に耐えしのびながら伊沢は壁づたいに歩いて行く。いつものその道のりが長くて、そして遠く遠くに感じた。
歩けども歩けども、辿りつけない――おかしかった。
思い起こせばあのサイレン……、もとい孫の絶叫を聞いてからだった。今も尚あの不愉快な不協和音が脳内と鼓膜にまざまざとこびりついているのが分かる。
何とか喫煙スペースへと到着すると、そこには長谷川がいた。もうとっくに帰宅したものだとばかり思っていたのに、長谷川は腰を降ろし、且つがっくりと頭を垂れた状態で片手にはすいかけの煙草を持っていた。
「長谷川さん」
呼びかけるが、反応は無かった。
伊沢はその横に腰掛けると顔を上げない長谷川にもう一度声をかけようか迷って……やめてしまった。長谷川は多分泣いているんだろう。
伊沢は無言のまま自分も煙草を吸おうと、マイルドセブンの箱を取り出した。降り出した煙草に火を灯すのとほぼ同時に弱々しい、くぐもった声がした。
「……分かってるんだ」
ライターを降ろしながら、伊沢が視線を動かした。
「分かってるんだよ。自分だけがどれほど愚かな事をやっているのかくらい」
「……」
話のピント合わせを測りながら、伊沢は何も言わずに続きを待った。
「だけど仕方ないじゃないか……、誰だって好きになってしまった気持ちに嘘はつけないものだ。……初めて名前を呼んでもらえた時から、ずっと好きだったんだ」
正直言ってちょっとクサいな、なんて思える台詞だったにも関わらずそれは――ひどく詩的めいたものに感じられて伊沢は煙草を吸うのも忘れて鼻を啜る長谷川の横顔を見た。
「長谷川さん。その……慎二郎さん……お孫さんとは、いつ頃からの付き合いだったんです?」
「――ここに入社してから、ずっと。こんな言い方は酷いけれど、彼がああなる前から色々と良くしてもらったんだ」
「……」
勝手な憶測にすぎないが――きっと二人は両想い、というやつだったのだろうか。けれどまあ、あのクソみたいな父親や美人だけどちょいとヒステリックな母親や……老い先短かろうが気難しい社長に挟まれて色々と苦痛だったに違いない。
あんな一家が(よく知りもしないのにそんな言い方をしてしまうのはどうかと思うが、そこは容赦してもらいたい)同性同士の恋愛なんて許すわけも無い。
それは……慎二郎が追い詰められていく理由の一つとしては、十分じゃないか? 彼はきっと苦しんでいたのだろう。それはきっと自分達とは比べ物にならないほどの葛藤があって(何せあのクソ専務が父親だ。自分達と違って毎日を過ごすのだからそれはそれは辛いものだったに違いない)、伊沢では到底想像も追いつかないだろう。
そして彼、長谷川もまた――苦しんでいたんだろう。それは彼の方が独りよがりの愛情をぶつけていたのかもしれないし、二人の間に何があったのかは自分の知るところではない。ただ……。
「――大丈夫ですよ」
その背中に、そう声をかけずにはいられなかった。さっき、長谷川が慎二郎にそうしたみたいに自分もまた同じように言っていた。大丈夫だ、と。
長谷川は少しだけ悲しそうに微笑んで、それからまた声を押し殺すようにして泣いていた。その背中を擦るようにして抱きとめながら伊沢は無闇に自分に何かを言いきかせるみたいに、頷いていた。
自分は彼と違って、男ではなくて女が好きだとは思うのだけどとにかく彼の支えになりたくて仕方が無かった。
それは男女の好きとは違う感情なのかもしれないが、伊沢はとにかく長谷川を少しでも助けてやりたい、守ってやりたいと、心の底から感じていた。
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