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こんな事を言ってもきっともう遅いんだ……伊沢はじりじりと間合いを詰めて来るそいつから後退していくと、背後のテーブルに当たった。
それで上に重ねられていたトレーが一斉にひっくり返って床に散らばった。
「……っ」
肉のすり身のようなそれは……深く考えるのも恐ろしかった。一体どこの部位だったのだろう、赤い肉に混じって爪や髪の毛が見えた。
この中にきっと堀澤やあの専務も――伊沢は震える視線のまま正面を向いた。
「あ……あ、あ、長谷川さんは――」
ほとんど衝動みたいに思い出した。もう一度振り返った、転がったトレーを持ち上げた。
何故あえてそれを掴んだのかどうかは……何か第六感的なものが働いたのかもしれないあるいは――逆さまになっているトレーの下から覗く目元にひどく覚えがあったからかもしれない。
トレーを持ち上げると、顔の右側面側だけがまだ潰されてない状態でゴミみたいに置かれていた。
「はせ……長谷川さ……」
喉が震えて声にならなかった。尻餅をついたままで、伊沢は目の前のバイクのエンジン音のようなものを聞いた。
「君もここに仲間入りするんだからね、いいじゃない」
「あ……ああ、あ」
「――それであの専務のバカ息子の餌になるんだよ! 今までそうしてきたように! ここに務めた人間が何故みんな辞めないか分かるかい!? そうするとこっちの仲間入りになるからだよ!」
デブがチェーンソーを持ち上げていた。その刃が、照明を反射させながら呻っていた。
「や……、やめ……」
すっかり腰が抜けてしまったらしい、立ち上がる事が出来ない。情けない……不甲斐ない我が身を憎んだ。命乞いをしようにも声すらはっきりと出てくれないのだ。
走馬灯、とは言ったものだが思い出されるのは――子どもはいないと言った母親の冷たい顔、ご飯を運んでいたおばあさんのところどころ歯が欠けたあの笑顔、足が痛むと言って部屋から出て来ない社長の想像上の姿や、そして、ああそして――さっき抱きしめた長谷川の温もりと、大丈夫だからと言った後の悲しそうに笑ったあの顔と。
そして今の、もはや生きてはいない長谷川の『部品』。その顔を見つめながら無闇に思った。彼の傍に行けるのならもうそれでいいのかもしれない、と。
ゆっくりと雪片のように降りて来るその刃を見つめながらまたあのサイレンのような喚き声を聞いた。
二階ではきっと慎二郎がまた泣いているのだろう、耳を塞ぎながら。初めて彼に遭遇した日、彼が何かに脅えながら「怖い」と叫んでいた理由も今なら分かる気がする。
この一家、いやこの会社はきっと、何かがおかしかったのだ。人あらざる者であったとか――推理してももう自分には関係のない事だった。
五時のサイレンと、慎二郎の泣き声と、チェーンソーのエンジン音とが重なって最高に聞き心地の悪い不協和音を奏でているのだった。
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