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……そうだ。
専務がかけていたあの眼鏡のデザインとまったくおんなじじゃないか!――伊沢は思わずその手から眼鏡を落とした。
自然と身体が震えだすのを止めることが出来ない……いやはや、どうして。明確な答えに行きつくほどの情報も無いまま伊沢はその場から離れなくてはと思った。
「……ああああ」
ふらつく視界の中何とか脚が動きがすのが分かった。だが……、扉の前で誰かにぶつかった。顔を上げると、大きな物体がそこにいた。
大きな物体は顔に文字通りに豚のマスクを被っていた。
「ひっ!?」
一瞬豚の化け物かと思ったそいつは、ゆらゆらと揺れながらこちらへ詰め寄ってきた。豚は軍手をした片方の手でマスクを外した。
「……っ」
続いて現れたのは巨大な陰茎野郎、あの配送のデブだった。
「お、お、お前……」
「伊沢、お前、俺の名前知ってるか」
突然こいつは何でこんな事を聞いてくるのかまるで訳が分からなかった。
「し、知ってるよ……配送の……」
そこで名前が出て来ない事を知るや、デブは可笑しそうに、実に薄気味悪く笑った。
――何だよ? 何なんだ一体?
「みんなそうなんだ。俺の事なんて『使えないデブ』とか『ブタ』とか、そんな風にしか認識していない。ざまあみろ」
「な、なあ……みんなは……みんなは一体どこに行ったんだよ? 帰ったのか? 機械も点けっぱなしで」
そこで笑っていたデブの顔から一気に笑顔が消えた。デブは笑うのを止め、真っ直ぐに伊沢の方を見つめた。
「そこにいるけど」
デブが指差したのは、伊沢の後ろのテーブルだ。
「……は?」
「まずは、むかつく専務から殺ったんだ。楽しみは最後に取っておこうかと思ったんだけど、あまりにもひどい事をするものだからついカっとなって最初に殺しちゃった。酷いんだぜ、専務。俺のチィちゃんにセクハラするんだからな。死んで当然だ。な? そう思うだろ」
チィちゃん、とは例のバイトの女の子だ。それでそのチィちゃんは一体どこなんだ? 思った。周囲を見渡した――やはり、見当たらない。
背筋がぞっと総毛立つのを抑え込めない、悪寒がする。
「それで、チィちゃんもひどいんだ。俺が助けてあげたっていうのに、その事を言ったら目の色を変えてこう言った。『人殺し』、って。ひどいだろ? ひどいよな? 俺はチィちゃんをスケベ狸の魔の手から救ってあげたんだぞ」
ぶつぶつと唇を動かしながら、デブはその定まらない焦点のまま独り言を続けた。
「お、い」
伊沢がこわごわと口を挟んだ。デブの視線がもう一度、まっすぐこちらを向いた。唾を一つ飲んでから、伊沢が口を開く。
「堀澤は……」
それでピンとこなかったのだろう。デブは考え込むように、黙り込んだ。それからようやく思い出したのか「あ」と言ってからまた喋り出した。
「君のお友達か!」
わざとらしいような感嘆の声を上げて、デブはそのアンパンみたいにまん丸い手をポンと叩いた。
「あいつはさぁ、特にむかついてたんだよ」
「――……」
「俺が知らないとでも思ってるんだろ」
その瞬間の表情と、ワントーン下げたその声に空恐ろしいものを感じたが、とにかく黙っていた。
「ぜぇんぶ聞こえてんだよ、ひひっ。いつか殺してやろう、殺してやろうって思いながら聞いてたよ。ええ。全部」
「あ……、謝るよ――俺が代わりに謝る。あいつは馬鹿だからさ、その」
今更になって何を取り繕っているのか。[ 10/11 ]←前 次→
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