09
昼ごろから続く具合の悪さは相変わらずだった。こんな時は寄り道せずさっさと帰って、夕飯を食べて、風呂に入ってそれから早く寝るのに限る――、あの奇声が変にエコーがかってぐわんぐわんと耳鳴りのように響いている。
吐き気すら催しそうになるほどだった。
あまりにも悪化してきたので、少しだけ休ませてもらうことにした。
「堀澤、悪い俺ちょっと休んできていい?」
「……ああ、いいよ」
心なしか、堀澤の顔色もあまり良くないように思えた。
だが……人の事を構っていられる余裕なんてもうどこにもないくらいに伊沢はふらふらしながら救護室(とは名ばかりで、職業上夜中から作業している人の仮眠所みたいなものだ)へとその足で向かった。
横になる事一時間弱ほど、五時になる三十分ほど前で何とか目が覚めた。
眠っていたところを見ると、きっと相当疲れがたまってたんだろうなと思った。というか、無闇にそう思い込むようにしていた。
伊沢は未だに不可解なざわつきを見せる脳内の中、しっかりと目覚め切らない視界で何とか起き上がった。
――ああ、早く家に帰りたい。こんな固い床の上に安いシーツが敷かれただけの布団じゃ無くて……家のベッドで眠りたい
おぼつかない足で立ち上がり、時計を見た。もうあと、大体三十分。何とか仕事を終わらせて帰ろう。早く帰ろう……。
耳の中で騒ぎ続けるそのノイズは、幾重にも重なって、人々の話声のように聞こえて来た。赤ん坊の泣き声や、女の金切り声、犬の吠える声、ガラスの割れる音、救急車のサイレンの音……それらがぐるんぐるんと自分の頭の中で喚き散らしている。
作業場に戻り、機械音が静かに響くその室内に足を踏み入れてからようやく気が付いた。
「……あれ?」
テーブルに手を置きながら辺りを見渡してみると誰もいない。
「何で?」
襲ってくる眩暈と頭痛のせいでまともに思い起こすことすら許されない――伊沢は何とか周囲を振り返るが、機械だけが無人にも関わらず動作し続けているのに気付いた。スイッチは入りっぱなしなのだろう、赤い電源ランプがチカチカと点滅を繰り返している。
帰ったにしても、機械をそのままにして帰るなんてまず有り得ないことだ。
一度、機械にビニールのシートを被せるのを忘れて帰っただけで神経質なくらいに怒鳴り散らされた身分としてはそんな事、あってはならない。
「堀澤……」
それどころかだーれもいないのだけど。
何の気なしに、テーブルの上に置かれた黄色いトレーに目をやった。作業も途中で中断したのだろうか、中身がそのままで放り出されている。
「ったく、……帰るなら最後までしていけよ」
ぶつくさと言いながらトレーの中に手を入れた。ぐじゅ、っといういつものあの感触と共に……不自然な、硬い感触がその手に触れた。
「?」
ゴム手袋のされたその手で持ち上げるとそれはガラス片のように見えた。
――こりゃ大変だ
食品の中にガラス片なんか混ざっているなんて、とんでもない。慌てて他にもそれが無いか深く手を突っ込むと、今度は大きなガラスに突き刺さったらしい。薄い手袋を裂いて血が滲んだ。
「いっつぅ……ええい、クソッタレ」
言いながらガラス片を見ればそれは……眼鏡のようだった。
「?、眼鏡?」
何でこんなものが、と口にするよりも早く気付いてしまったことがあった。眼鏡のテンプルと呼ばれる部分……ちょうど耳にかけるあの箇所から垂れさがる趣味の悪い金色のチェーンにはひどく見覚えがあった。
「……これ、専務の?」
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