君こそが救世主(上絶霰士郎+ジュエルマスター)(ちょっとグロ注意)







 迂闊だったなぁ。
 ナイフの刃をライターで炙りながら、マスターはぼそりと呟いた。
 ジュエルマスターというものは基本的に無力だ。武器があっても星喰いには太刀打ちできず、傍にジュエルセイバーがいなければ身を守ることさえままならない。
 せめて自分もセイバーだったなら。戦う力は無くとも、傷ついた仲間を癒せたら。無い物ねだりをしても仕方ないとわかっているが、この状況において彼はそれを思考せずにいられなかった。

「霰士郎」

 返事はない。失血が多いためにできないのだ。
 マスターは傍らに横たわる上絶霰士郎に沈痛な面持ちを向けた。
 肩から腹部に渡る大きな裂傷。星喰いの鋭い爪によるものだ。深くはないが、傷口から流れる鮮血は、彼の白い軍服を赤黒く染め上げている。
 普段の彼がこのような深手を負うことはない。浄化の最中、無防備になったマスターを狙った星喰いの不意討ちから庇ったのだ。
 突然の襲撃に混戦となり、他のセイバーともはぐれ、マスターは負傷した上絶を担いで近くの廃墟に身を潜めたのだった。

「……絶対に死なせない」

 もう十分だろう。ナイフが床につかないようにライターを置く。
 間違っても傷口を刺激しないよう細心の注意を払いながら上絶に跨がり、ハンカチを彼の口に突っ込んだ。

「む……」

 息苦しさに閉じていた上絶の瞼が開く。真っ先に視界に広がる、馬乗りになってナイフを構えるマスターの姿に驚愕し、その目がますます見開かれる。

「耐えろよ」

 最早一刻の猶予もない。マスターはそれだけ早口に告げ、熱された刃を肩の傷口に押し当てた。
 声にならない悲鳴が辺りに響き渡った。
 激痛に悶絶する上絶の上半身をありったけの力で押さえつけ、肉と表皮を焼き塞ぐ。豚肉を焼いたときのような、独特な甘い匂いが鼻腔をついた。
 強く噛み締められたハンカチからギチギチと鈍い音が鳴っていた。何かを掴もうともがく手が、手袋の布地で滑りながらも床にしがみつこうとし、引っ掻いた。立てられた爪は指先の布に穴を開け、割れていき、タイル張りの床には無数の赤い爪痕が描かれていった。
 止血が腹部に及ぶと更に痛みが増したのか、抵抗の矛先はマスター自身に向けられた。
 加減を忘れた男は容赦なくマスターの腕や背を掻き毟り、顔を殴りつけ、目を潰そうとさえした。
 鼻血が垂れ、口唇が裂け、掻かれた箇所の皮膚が剥け、時折肉を抉られても、マスターは迷わず止血し続けた。

「っ、終わった。終わったよ、霰士郎」

 実際には数分にも満たぬ短い間の出来事であったが、マスターにも上絶にも、途方もなく長い時間に感じられた。
 作業の終了と同時にナイフを投げ出し、上絶の口からハンカチを引き抜く。噛み締めすぎたためだろう、歯茎とハンカチに血が滲んでいた。
 ようやく大きく呼吸することが叶った上絶は必死に肺に酸素を取り込み、それから糸が切れたマリオネットのように腕を床に放り出した。その細面は脂汗で覆われ、涙と鼻水と唾液で見るも無惨な有り様になっていた。
 マスターは手早く上着を脱いで破き、包帯代わりに火傷に巻きつけた。

「優羽か向日葵と合流したら、すぐに治療してもらおう。大丈夫、きっと元通りの綺麗な身体になるから……」

 荒い呼吸を整えながら、優しく上絶に語りかける。ぼろぼろになってしまった彼の指先まで処置できるものは、今手元にはない。せめてもと祈りに似た気持ちで掌を両手で包み込んだ。

「恨んでくれ」

 自分がもっと周囲に気を払っていれば良かった。回復役を連れて逃げれば良かった。何もかもマスターが至らないばかりに事態を悪化させてしまった。
 故に、自分が負った怪我は当然の報いだ。むしろ足りない。彼との友情が壊れても受け入れる覚悟で、マスターは上絶の瞳を凝視した。

「…………ふ、は」

 返ってきたのは言葉ですらない、浅い呼吸音。
 意識を保つ気力もなくしたのか、それが合図だったかのように上絶は失神した。
 数秒間呆気にとられ、我に返って口許に耳を寄せた。静かな寝息が耳朶を打つ。マスターは胸を撫で下ろして、体液まみれの寝顔を手でそっと拭った。
 あれはどういう感情だったのだろう。
 上絶が自分に返そうとしたものを思案する。恨み言を投げたつもりだったのだろうか。だとしたら嬉しい。罵倒の一つや二つでもないと、彼の受けた苦痛には到底贖えない。
 しかし、それにしては眼差しには怒りや嫌悪感といったものが含まれていなかったような気がする。
 憎悪できないほどに弱っていたのだろう。────そうであってほしい。
 遠くで自分の名を呼ぶ仲間の声を聞きながら、胃の辺りがざわつくのを感じた。


**********


「ずいぶん無茶したな」

 紫煙と共に吐かれた神崎紅夜の言葉に、マスターは黙り込むしかなかった。
 二人は拠点の外に設けられた喫煙所にいた。
 愛煙家であるマスターだが、今だけはどうしても吸う気になれなかった。新しく身につけたTシャツには、早くも血が滲んでいた。

「別に責めてるんじゃない。あの場では最適な判断だった」

 俯くマスターに、神崎は慌てて付け足す。灰が地面に落ちそうになっていることに気づき、灰皿の縁で軽く灰を落とした。

「お前もついでに治してもらったらどうだ? そのままにしとくと、多分しばらく跡になるぞ」
「いいんだ、それで」

 淡々とした返答に、神崎は頭を掻いた。

「上絶を襲ったのは星喰いだ。お前も被害者だ。そこを忘れるなよ」
「狙われたのは俺だ。俺がすぐ動かなかったせいで霰士郎が余計な怪我を負った。俺も加害者だ」
「……じゃあお前は、お前が他人を庇ったとして、それでお前が怪我をしたら、そいつのせいにするのか?」
「しないよ。でも俺は特別なんだ」

 マスターの態度に神崎は盛大なため息をつき、灰皿で煙草の火を揉み消した。

「籃馬といいお前といい、何食ったらそんな拗れるわけ?」
「わからない。自分のせいにしないとやってられないんだ。特に俺は、不幸を呼ぶ子だし」
「そんなクソみたいな評価真に受けんなよ。……まあお前は、あいつより自己分析できている分、ちゃんと話聞くからいいけどさ」

 面倒臭くてごめんと謝ると、わかっているなら早く立ち直れと叱られた。全くもってその通りなので、何も言い返せずに立ち去る神崎の後ろ姿を見送った。
 無理矢理にでも一本吸えば、少しは気が紛れるだろうか。煙草を取り出そうとボトムのポケットに手を伸ばすも、そこには何も入っていなかった。
 落としたか。部屋にいくつかストックを買い置きしてあるから、一度屋内に戻るしかない。
 依然沈んだまま────表にはそれを出さないよう努めて────拠点の入り口をくぐった。

「マスター!」

 入って早々出迎えた声に、どう反応すべきか逡巡した。廊下全体に響き渡るほどの呼びかけを、まさか無視するわけにもいくまいと、とりあえず返事をすることにした。

「霰士郎」

 治療を終えたらしい上絶は、さほど距離が離れているわけでもないのに大きく手を振ってくる。こういうとき、普段のマスターならすぐにでも駆け寄るのだが、今それを実行するには気が重すぎた。

「……もう大丈夫なの?」
「勿論さ夏野ちゃんの愛と魔力と献身のおかげで回復し完全に全快したよ傷痕一つ残らない完璧な肉体になっている、ほらほらほら見るかい?」

 見るかいと訊きつつも、既にワイシャツのボタンを外して素肌を見せようとしている。人が来たらどうするんだという指摘は置いといて、微苦笑しながら答えた。

「ちゃんと治ってるみたいだね」
「何でそんな遠い位置から見ているんだそれじゃわからないだろうもっと間近で刮目して注視して観察してくれよ」

 近寄れと言われ躊躇したが、断るのも不誠実だと思い、観念して歩み寄った。
 パーソナルスペースをいつもより広くして、彼の前で立ち止まる。
 あれだけの大火傷も、その肌には確かに跡を微塵も残していなかった。初めから傷などなかったかのようだ。

「良かった……」

 安堵のため息が零れた。
 満足げな上絶の笑顔に、これで用は済んだろうと踵を返す。

「待っておくれよどこに行くんだい?」

 瞬間、手首を掴まれた。
 圧を感じる声音に振り返ることもできないまま、「喫煙所」と嘘をつく。

「嘘だね煙草を持っていないじゃないかライターだってあの時あの場に置き去りにしてただろう何で僕にそんな嘘をつく必要があるんだいねえねえねえねえ?」

 彼の手に力がこもる。骨が折れるのではないかと危惧するほど、強く。
 それでも振り返らないマスターに業を煮やしたのか、今度は強引に引き寄せた。
 体の重心が傾いた拍子に抱き止められ、片手で首を絞められながら力ずくで顔の向きを変えさせられる。筋肉に鈍い痛みが走った。

「君、まさかこの僕を親友を避けているのかいそうなのかい?」
「そ、んなこと」
「なら何故視線を合わせないんだ僕が納得する理由をおくれよ、言えるものなら」

 以前、竜胆薫に「嘘がとっても下手だ」と評されたことを思い出した。狭間真字女なら上手く切り抜けられるのだろうな、とも考えた。

「……どの面下げて会えばいいんだ。俺は親友である君にあんな仕打ちをした。俺の存在が、あの悪夢みたいな出来事を思い出させてしまうかもしれないのに」

 上絶の瞳を恐る恐る直視する。木蘭の淡い色は、興奮で徐々に赤に染まりつつあった。先ほど上絶を汚した血を連想させ、追随して彼の肉を焼いた匂いも思い起こした。

「つまり僕を気遣ってたのかい? 不快で不愉快で気分を害させないように?」
「……うん」
「僕に失望して飽いて切り捨てようとしていたわけではなく?」
「は? あり得ない!」

 予想外の言葉に思わず声を荒げてしまう。
 目を丸くした上絶に、だが衝動を堪えきれないまま続ける。

「俺が君にどんなに救われてると思ってるんだ! 今日だけじゃない、今までだって、霰士郎がいてくれなきゃ俺なんてとっくにくたばってる。感謝こそすれ失望するなんてあるわけがない。むしろ、俺の方こそ」

 言葉が詰まった。伏せかけた視線をもう一度上げ、上絶の顔を正視する。

「俺の方こそ……君に、失望されてるんじゃないか。救われてばかりいるのに、俺は、あんな方法でしか君を助けられなくて、ごめん」

 戦えない自分を恨んだ。守られるだけの自分を憎んだ。今日この日ほど、不甲斐ない己を殺してやりたいと衝動に駆られたことはない。
 許されるとは考えていないし、許されたいとも思わない。
 それなのに。

「…………やばいやばいやばいやばいやばい、マジかこんなことある? え? 嘘だろマスターそんなに僕のこと好きだったのかい? ああああもう、僕としたことがこの展開を予測できなかっただなんて、いやマジでこれは予想外想定外嬉しい誤算」

 突如頭を抱えて百面相を始めた上絶に、マスターは面食らった。少なくとも、彼に対する感謝と好意と謝罪は伝わったらしかった。
 呆然としていたのも束の間、上絶はマスターを抱き締めた。

「そうだよそうだよそうだよ、そんな君だから僕はあんな苦痛激痛深手惨苦を与えられても受け入れて許せて大好きでいられるんだ」
「許す?」

 信じられない心地でマスターは上絶の告白を聞いていた。愕然とするマスターの心境など露知らず、上絶は空をさ迷う彼の手を握った。

「ああやはりだ、覚えている記憶に焼きついている肉体に刻まれている、この感触! この温度! 眠る僕の手を取った君の優しさと温もりを知っている知っていながら何故恨むことができようか!」

 俺は優しくなんかない。喉まで出かかったそれを、しかしマスターはぐっと飲み込んだ。
 だって、本当に優しいのは、君の方じゃないか。

「君が僕に救われているというのなら僕だって今日君に救われた。何度だって言ってあげるとも、マスター! 君は僕の命の恩人だ! 最高の親友だ!」
「霰士郎……」

 上絶の体温と無限の言葉の雨に包まれて、どこか体が軽くなるのを感じながら、俺は本当は彼に許されたかったんだ、とマスターは涙を流した。





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