カチカチ山【華槌十輝+ジュエルマスター】
「マスター、これ何だ?」
華槌十輝が2階から降りてきた。
異界における住居兼拠点として利用している一戸建ては、大柄な体躯の彼には些か狭いように思われた。
近いうちに、もっと広い空き家に引っ越さなければならない。マスターと呼ばれた青年────望月希望は、頭を屈めてリビングに入ってきた十輝を見ながら思った。
「何か面白いものでもあった?」
テーブルに資料を広げて課題に取り組んでいた希望は、一旦中断してそれらを片付けた。
十輝は希望の左側の椅子に腰掛け、彼の興味を惹いたそれをテーブルに置いた。
「うわ、懐かしい!」
見るなり希望は声を上げた。
十輝が持ってきたものは絵本だった。タイトルは『カチカチ山』。色褪せたイラストやページの端々の汚れから年季を感じさせた。
「こんなの、よく残ってたな」
幼少期、何度も繰り返し読んだ記憶が蘇った。度重なる引っ越しの最中に捨ててしまったとばかり思い込んでいたが、未だに手元にあったようだ。
「それ、本なのか?」
十輝が横から覗き込んだ。人懐っこい瞳が好奇心に輝いていた。
「陽世君や吾妻さんが読んでるのと違うな」
記憶喪失である彼にとっての本のイメージは、身内が読む文庫本だ。以前ちらっと読ませてもらったことがあるが、難しい漢字が多く挫折した。
それと比較すると、こちらは平仮名が多い上に文字も大きく、絵があって読みやすい。
「絵本って言うんだよ。で、これは『カチカチ山』っていうお話を絵本にしたもの」
「えほん。かちかちやま」
表紙には、可愛らしい兎と狸が描かれている。動物が主役の物語なのだろうか。十輝の中で、無邪気な興味が湧いてきた。最低限の知識が抜けているだけで、元々知的好奇心は旺盛なのだ。
何より、十輝にとって特別な存在であるマスターが読んだというだけで、彼の関心を抱かせるには十分だった。
希望は絵本を食い入るように見つめる十輝を見て、コロコロ笑った。
「読んでみる?」
「いいのか!」
「俺も久し振りに読みたいし。何なら読み聞かせてあげるよ」
二人は立ち上がり、リビングの奥のソファに移動した。
十輝はぴったりと希望に体をつけ、希望も垂れかかるように身を寄せながら本を開いた。
■■■■■■■■■
「めでたし、めでたし」
希望は低く歌うように、短いお話を締め括った。
パタンと絵本を閉じ、傍らの十輝を窺った。
「……す、凄い話なんだな」
十輝はしばし絶句した後、それだけをようやく口にした。
もっと平和的な物語だと思っていた。ファンシーな表紙の兎と狸の絵が、急に恐ろしくなった。
「これはね、俺の価値観に影響を与えてくれた話なんだ」
視線を落とし、表紙をそっと撫でながら希望が呟いた。
意外な言葉に十輝は目を丸くした。
「影響?」
「十輝は、狸に殺されたお婆さんをどう思う?」
不意の問いかけに一瞬戸惑うが、十輝は彼なりに考えて回答した。
「……可哀想だと思う。悪さをしていた狸を、可哀想に思って許して、それなのに結局殺されてしまって…その上…」
「そうだね。それに、狸の命乞いにも耳を傾けるような人なんだから、このお婆さんはきっと優しい人だったんだと思う。狸は、そんなお婆さんの優しさに付け入って、恩を仇で返したんだ」
お婆さんを喪ったお爺さんの悲痛、苦しみは如何程のものか。もしかしたらお爺さんは自分を責めたかもしれない。
自分が狸を殺していれば、お婆さんは死なずに済んだのに、と。
絶望の淵にいるお爺さんに手を差し伸べるのが兎だ。
「ただ殺すだけでは、お爺さんの、そして殺されたお婆さんの痛みには到底足りない」
だから兎は、ありとあらゆる手段を用い、徹底的に狸を責め続けた。
二人の怒りと苦痛を味わわせる為に。
己の所業をわからせてやる為に。
希望の言葉が、まだ未形成な十輝の精神に浸透していく。
「十輝ならまず間違いなく心配いらないだろうけど、君は絶対狸になっちゃいけないよ」
人の情を踏みにじるような外道になど。
人の命を弄び奪うような屑になど。
「君は、兎になれ」
敵に情けと容赦となどかけるな。躊躇わず苦しめて殺せ。
弱き人々の痛みを思い、怒れる、正義の味方であれ。
「これからきっと、君を迷わせることが何度も起きると思う。そんなときは、このお話を思い出してほしい」
「わかった」
希望の真摯な視線を受け止め、十輝もまた真っ直ぐに見つめ返した。
希望は、世界を救うという使命を背負っている。誰かの為に命を懸け、自らを犠牲にしてまで大切なものを守ろうとする。それは一片の疑いようもない正しく正義だ。
十輝が憧れる正義の味方を、彼は体現していた。
強くて優しい彼の言葉なら、いつだって正しいに決まっていた。
「俺は兎になる。兎になって、マスターや皆を敵から守ってみせる!」
「ありがとう。これからも、頼りにしてるよ」
希望の手が、十輝の亜麻色の髪を撫でた。十輝が最も好むスキンシップだった。
十輝の胸を暖かいものが満たしていった。