9.狼狽




バクバクと高鳴る胸を押さえつけて、自室の扉をバタンと閉めた。日光が差し、明るく輝く静かな室内に入り、名前は息を吐いた。


この国は、怖いものばかりだ。


名前はつくづくそう思った。この部屋も紅炎のものだし、外に出ればいつジュダルが襲いかかってくるか分からない。ジュダルに関しては逃げた名前が悪いのだが。


小さく息を洩らして、名前は部屋の奥に足を向ける。書斎にある本を読もうと思ったのだ。


書斎には書物も沢山あった。中にはトラン語で書かれたものもあって、よく読込まれたのか綺麗とは言えなかった。


名前はこれがすべて紅炎の物なのかと思うと少し驚いてしまった。皇子である以上教養はあってなんぼだが、ここまで幅広い分野に膨大な量、これだけ読むのはかなり勉強に熱心でないと出来ないだろう。


暫く見て回った名前は物語を選んで手にとった。


部屋の隅にあった椅子に腰掛け、静かに書物を開く。文字を目で追っていると自分を忘れられる。名前は本が好きだった。小さな頃は藍林と絵本をよく読んだりものだ。


荷造りや煌帝国の勉強で、しばらく物語を読む暇も無かった名前は、久しぶりの感触に頬を緩めた。













「…、名前」


すっかり物語に入り込んでいた名前は、突然呼ばれた自分の名前に、弾かれた様に顔をあげた。するとどうだろう、約20cmもない程近くから、紅炎が顔を覗き込んでいた。


「っこ、紅炎様、いつから、そこに」
「つい先程だ。それよりも名前、夕餉はもう済ましたのか?」
「夕餉……? まだそんな時間では……」


紅炎の言葉にハッとして外に目をやると、もう月が登りきっていた。知らぬ間に夜になっていたようだ。


「侍女から呼んでも出て来ないと聞いたが、書物を読んでいたとはな」
「……っすみません」


気付かぬうちに侍女も来ていたらしい。名前は慌てて書物を閉じた。


「いや、良い。それもりも夕餉だ。今持って来させる」


急いで書物を元に戻し、自分で夕餉を頼んでくると言う名前を紅炎は手で制し、部屋を出て行った。


何をしたら良いのかわからなくなった名前は、意味も無く立ったり座ったりして紅炎を待った。


何度目かの着席の後、漸く帰ってきた紅炎は、後ろに侍女を控えていた。やけに多い皿の数に、首を傾げると紅炎は、自分の分もあるのだと言った。


綺麗に並べられていく食べ物に、そう言えば昼も食べていないと思い出した名前は、じわじわと空腹感を感じていた。


「食べ終わりましたら、お呼びください」


最後にそう言った侍女達が部屋を出た後、名前と紅炎は向かい合って席に着いた。


「ぃ、いただきます」


無言で食べるのは無礼だよな、と小さな声で挨拶をして名前は箸を持った。まずは水気の多いものが食べたいなと思った名前は、野菜の煮物に手をつけ、ようとしてあることに気づいた。


「お酌……!」


ガタタンッ、と音を立てていきなり席を立つ名前。目の前のご馳走に目を取られ完全に忘れてしまっていた、と慌てて紅炎の側に寄る。


が、紅炎の器には既に酒が入っていた。急いで酒を手にとった名前はそれを見てさっと顔を青くした。


「……ぅ」


小さく唸り声を上げて眉を下げた名前を一瞥した紅炎は、耐えられなかった様に小さく喉で笑った。


「部屋の中でまで気を張らなくて良い、酌ぐらい自分で出来る」
「……は、はい」


すすす、と元の位置に滑らかに戻る名前。顔色は今度は薄ピンクに染まり、ちびちびと食事を食べ始めた。暫くすると美味しいのか段々と一口が大きくなり、今では頬いっぱいに詰め込みもきゅもきゅとまるでハムスターの様に頬張っている。


その姿を正面で見ていた名前は、またくつくつと喉の奥で笑った。


名前は内心ほっとして居た。朝、良いとは言えない別れ方をした紅炎と、穏やかに食事をできるとは思っていなかったのだ。


それと同時に戸惑った。昨日はあんなに威圧感たっぷりと接して来たのにどうしたのだ、と。















結局その後は何事もなく円満に食事を終えた。侍女達が食器を片し、風呂の用意をした。風呂は紅炎に先に入ってもらい、名前はその後に入った。


風呂は予想通り広かった。湯は白乳色で良い香りがしていた。中まで入ってきた侍女に顔を真っ赤にしながらも名前は初めて入る風呂を堪能した。


風呂から出ると紅炎は書類に何か書き込んでいた。その真剣な顔に思わず足を止める。風呂上りでさらりと流された紅色の髪は艶やかで、少し寄せられた眉は悩ましげな雰囲気を醸し出している。


名前は見過ぎたと気づきすぐに視線を落とした。書斎を出て、寝室から外を眺める。


__わからない事が多過ぎる。それが昨日、今日とこの城を見て回って、そして紅炎と過ごして、名前が思ったことだ。


一見柔らかい空気が流れているのに、近づけば、黒いドロドロとしたものを隠していて、怖いものだと恐れていれば、そんな事はないとばかりに優しくなって。


何が本当で、何が嘘か分からない。ここで大人しく最小限にしか関わりを持たず、ひっそりと生きて行くだとは、何て浅はかな考えでここに来たのだろう。名前には、この煌帝国はとても手厳しいところにうつった。









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