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彼の帰還



どこか遠くで僕の名前を呼ぶ声が聴こえた。

―…トム、トム。

違う。彼女は、カヤは僕をそんな風に呼ばない。
きっと目が覚めてしまえば。
僕の傍にカヤはいない。

目覚めたくないと思うのと裏腹に、僕の瞼は開かれて光を映した。


「………」
「やっと起きたね」


だいぶ久しぶりに聞く声だった。
その声の主は少し驚いたように目を見開いていて、僕は疑問に思いながらも気怠く感じる身体を動かす。

周りを見渡せば大量の本が棚に敷き詰められている。
カヤの世界へと行く前と、何ら変わりない風景だった。


「珍しいこともあるものだね。トムが図書室でそこまで熟睡するなんて」
「アブラクサス、」


見慣れたホグワーツの図書室。
そして目の前のホグワーツ生の存在。

僕は、帰ってきてしまった。
あちらの世界にカヤを置いて。


「…カヤ」


口から零れた愛しい彼女の名前を呼んだのは、情けないほど弱々しい声音で。
アブラクサスが見ていることなど気にもせず、僕は何度も彼女の名前を呟いた。

何故、別れの時くらいこの姿のままにさせてくれなかったのか。
あんな小動物の姿では、目の前で涙を流すカヤを、それでも必死に笑おうとするカヤを。

抱き締めることも、安心させるような言葉もかけられない。


「…今日は珍しいことだらけだね。トム、そんな弱い君は初めて見るよ」


失望と、呆れと。
そういったものが入り混じった深い溜め息が聞こえた。


「アブラクサス」
「…っはい」


僕の声が真剣なものに変わると、アブラクサスは小さく肩を揺らして頭を垂れる。

伝えなければならない。
僕の目的は、変わったことを。


「悪いが、もう僕はマグルや穢れた血に興味はない」
「いきなり何を…」
「いや、興味がないとは違うな。確かにマグルであった父や、僕を蔑んできた奴らは今も変わらず憎い」
「…ならばどうして。貴方の意向により私達は、」
「そのような事よりもやるべきことがある、とだけ言っておく」


机の上に置かれたたくさんの本を浮遊呪文で棚へ片付けて、呆然と立ち尽くすアブラクサスに背を向けた。


「…貴方ほどの人でなければ、誰が成し得るというのです」
「期待を裏切ったようで悪かった。…他を当たれ」


背中越しに言い放ち、図書室を出た。

廊下を歩いている最中に掛けられた声を全て無視して、スリザリン寮の自室へと戻る。
小さく息を吐いてそのままベッドへ仰向けに倒れた。


「カヤ…」


右耳に指を寄せれば確かに触れる僕と彼女を繋ぐ、唯一のもの。
紅く、小さく輝いているであろうそれは暖かい。

正直言えば、もっと悩むかと思った。

同士を集い、マグルや穢れた血を排斥し、選ばれた者しか存在できない世界を創り上げる。
その為に、分霊箱(ホークラクス)について調べ上げ不死になるための準備も着々と進めていた。
自分の祖先であるサラザール・スリザリンが作ったとされる秘密の部屋の捜索を行っていた最中でもある。

簡単な思い、軽い気持ちではなかった。

それでも、今の僕にはそれよりもカヤのことの方が余程大切なことに思われた。
いや、事実そうなんだ。

理想の世界や不死じゃなく、僕に必要なのは。

『リドル』
そう僕を呼んで、花が咲くように眩しく笑い、無償の愛を与えてくれたカヤ。

いつも優しく穏やかに細められていたオレンジの瞳を思い出し、僕は不意に杖を取り出した。


「…エクスペクト、」


最後まで唱えることはしなかった。
できなかった、の間違いか。

別れ際カヤに幸せかと問われた時、グッと心臓が掴まれたような感覚になった。

君がいない世界では感じることのなかったもの。
君と出会って初めて感じたもの。
カヤのいない今、僕は幸せではないと断言できる。
だが、カヤと共にいた月日は間違いなく。

―…幸せだった。



(彼女に伝えたいこと)


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