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あと数日、あと数刻。
俺が早く此処へ辿り着いていれば―――。

時を戻す術などない以上、そう思うだけ無駄だ。
だが、俺を上から押さえつけ喉元に刃を向けた目の前の彼女の双眸からとめどなく零れ落ちる涙を見てしまえば。

彼女の家族を救えたかもれない可能性があったことに、後悔を抱かずにいれなかった。


「…禰豆子、こっちおいで」


鬼である妹をそっと抱き寄せ、静かに聞いたことのない歌を口遊む彼女。
子守歌のような穏やかで耳心地の良い音色はポツリポツリと小さくその場に流れる。


「少し眠ろう。…おやすみ、禰豆子」


そして驚くべきことに、あれほど飢餓に苦しんでいた彼女の妹はすんなりと微睡みへと誘われる。

重度の飢餓状態に陥った鬼が人を襲うどころか人を守り、結果的に血肉を一切口にすることなくその飢えが治まったなど俄かに信じ難い。

人伝に聞いたのであれば、確実に信じることはなかっただろう。だが俺は事実、自分で今その光景を目の当たりにした。
―――この鬼は、この者たちは…何かが違うのかもしれない。






その後、苦しそうに咳をして雪の上に座り込んでしまった彼女に近寄ろうとすれば未だ涙の滲んでいる瞳で睨まれてしまったため足を踏みとどめた。

致し方なかったとはいえ、彼女にとっての家族に危害を加えてしまったのだ。先程向けられた刃も同じく、敵意を向けられて当然だろう。

そしてまず俺が何者なのか、どういう経緯で此処にいるのかを知ってもらわねばと説明したが彼女の表情は依然として変わることはない。


「…あの少年にも言ったが、一度鬼になった者は人間には戻れない。次また飢餓状態になった時…今回のように人を喰わずにいられる保証はない」


たとえ妹であっても、鬼である者を連れてこの先生きていくとなれば前途多難などという言葉では言い表せないほど幾多の苦難や悲しみを背負うことになるだろう。

その現実を受け止める覚悟が、彼女にあるか。
烏滸がましくも、確かめたかった。


「そうなったら、禰豆子を殺してわたしも死ぬ」


間入れず返された、予想だにしていなかった言葉。
鋭くなった眼光からは確かな怒りが見てとれた。


「禰豆子は負けない。飢餓状態であっても炭次郎を守った禰豆子を信じてる」


打って変わって表情と声音を和らげた彼女は、傍らに眠る妹と弟の頬を撫ぜる。

今まで、家族を鬼に殺された者や家族を鬼にされた者たちを数えきれないほど見てきた。
だがここまで、お互いがお互いを想う気持ちが強い者たちは見たことがない。

その計り知れない絆が、鬼になったはずの妹を人間と鬼の狭間で食い止めているのか。

分からないが、その考えに俺の思考が行きついたことに自分自身でも驚いた。
他の誰かに、自分の中の何かを変えられたことは初めてのことだったのだ。


「わたしは、家族を殺したあいつを必ず殺す。わたしに残された生きる希望は、命に代えても守る。もう誰にも奪わせないために、わたしは強くなる」


続けられた言葉に、また衝撃を受ける。
揺らぎも迷いも一切ないハッキリとした声と瞳。

家族を殺され悲しみに暮れ、挙句の果てには自分が死ねばよかったなどと言い出した俺とは違う。

家族を殺されて一日も経たないだろううちに、彼女は既に未来を見ていた。


「………っ、」


潤んだ黄金色のふたつの瞳にジッとこちらを見つめる彼女は、とても綺麗で…。

―――この状況で俺は何を。

ハッと我に返り、彼女の瞳から視線を逸らすために顔を背けた。
何故だか気恥ずかしさに襲われ、それを紛らわすように己の着ていた羽織を彼女へ羽織らせる。


「先程も言ったように、俺はこれ以上危害を加えるつもりはない。…家族を殺した鬼を憎み滅したいと、強くなりたいと思っているのならば…っ!」


俺の言葉の途中でグラリと揺れた身体を咄嗟に支えれば、彼女は気を失ってしまっているようだった。

腕に抱いた身体は軽く、真っ白な雪に溶けてしまいそうなほど肌は白い。
あの山の奥で彼女を見つけた時。纏う着物が血に染まっていた為、すぐに重傷であると判断したが…今よく見てみれば外傷は何もないように見えた。

ではこの血は一体……。
思考を巡らせようというところで、傍で気を失っていた少年が身動ぎをする。


「…起きたか」


一先ずこの少年と話をしよう、と眠る彼女の身体に障らぬよう羽織を地面へ敷いてゆっくりとそこへ横たわらせた。



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