玄弥は、背伸びをして無表情のまま自分の頭を控えめに撫でる目の前の彼女にひどく狼狽していた。 柱補佐という新しい任に就いている彼女―――竈門月子は、師匠である岩柱からの話によるととんでもなく“強い”と事前に聞いていた。 実際に会ってみれば、その華奢で可憐な外見をしていて、とてもじゃないがとんでもなく強い師匠が“とんでもなく強い”と言うほどの人には到底見えない。 「剣の才能がないというのは単純に全集中の呼吸が使えないから才能がない、と?」 「…基本的に、呼吸が使えないと鬼相手にまともに戦うことすら出来ないと思うんで…」 「本当に?」 「……っ、何が言いたいのか分かんねェっす」 これ以上、この話を広げてほしくない。 どう足掻いたって、兄がそう言ったように、自分が呼吸も使えず剣の才能もない役立たずである事実は変わらないのだ。 玄弥は苛立った様子で、出会ってから初めて敵意を込めた瞳で月子を見下ろし、キッと睨みつけた。 「―――玄弥から、鬼の匂いがするのは何故」 唐突に彼女から放たれたその言葉に、玄弥は一瞬息をするのを忘れる。 ヒュッと乾いた音が喉元から鳴り、開いた口からは浅く息が漏れるだけだ。 元々の身体能力も低く、呼吸も使えない。それでも、“これ”は少しでも柱である兄に追いつくための、苦肉の策。 それは、自分の生まれながらの特異体質を利用したもの―――。 これを知ってるのは師匠と、お館様と、身体の具合を診てくれている蟲柱だけ、なはずなのに。 「お、にの匂いって…そんなはず、ッ」 「玄弥、本当にあなたは銃で戦うだけ?あなたの戦い方は、それだけ?」 嗚呼、この人はもう確信してる。 それなのに、こうやって直接聞いてきてる。なんて、意地悪な人なんだ。 不愉快だ、とそう思うのに。自分の頭に置かれた彼女の手が、未だに優しくゆっくりと動いているから、その温もりに縋ってしまいたくなった。 「……俺、鬼を喰うんです。喰った鬼は俺の中で消化されて、その能力を吸収します。そうすると鬼の力を一時的に得ることができて、それで…戦う、ことも出来ます」 ふむ、と月子は考え込んだ。 玄弥から鬼の匂いがしたのは、彼が鬼なのではなく、鬼を喰っていたから。 鬼を喰い、消化し吸収する。そして鬼の力を得る。普通の人間に出来ることではないだろう。 「胡蝶さんは、俺に備わってる強い咬合力と特殊な消化器官がそれを可能にしてるんじゃないかって言ってました…」 「…そう。玄弥は、鬼を喰べたい?」 「え、あ…いや。喰いたいか喰いたくないかで言ったらそりゃ喰いたくはねぇけど…でも、そうしないと俺はいつまで経っても弱いままで……」 喰いたいわけない。あんなモン。だけど、強くなるためには、そうするしか―――。 「玄弥、今日の任務の鬼の滅殺はあなたに任せる。わたしは見てるから、頑張ってみて」 「………は、え?」 「銃も使っていいし、もちろん日輪刀も使っていい。ただ、どれだけ劣勢になっても鬼を喰うのは禁止する」 「…え、いやちょっと、竈門さん?」 タラタラと多量の汗を顔に浮かばせる玄弥は“何を悪い冗談を”と顔を引き攣らせたが、己を見上げてくる月子の顔は相変わらず無表情でとても冗談を言っているようには見えなかった。 ―――俺、今日死ぬかもしれねぇ…。 ■ ■ ■ 「おつかれさま、玄弥」 「…っはぁ!はっ、はぁ…ッ、!」 まだ落ち着かない呼吸を必死に落ち着かせようと地に膝をつく玄弥の背中を、隣にしゃがみ込んだ月子が彼の背中をさする。 「俺、鬼を……っ」 「うん。厄介な血鬼術も使ってたし、あれは決して弱くはない鬼だった」 玄弥は右手に握った日輪刀を見つめる。 どれだけ傷を負っても、何度死にかけても、鬼を喰らうことはせず銃とこの色の変わらない日輪刀だけで鬼を斬った。呼吸は使えない、型だってない。ただひたすらに、我武者羅に刀を振って。 「呼吸が使えなくても、鬼は斬れる。玄弥は、鬼を喰べなくても今よりもっと強くなれるはずだよ」 「…………っ、」 「わたしでよければ、色々教える」 岩柱の悲鳴嶼は、玄弥の師とは言えども彼に教えたことは数少ない。 呼吸が使えず、剣の才に恵まれない玄弥には主に精神を鍛える鍛錬を中心に行っていた。 玄弥が鬼を喰らい、その能力を得ることが出来ると分かってからは特に教えられることの幅が狭まり、悲鳴嶼は玄弥を見守ることに徹していたのだ。 「……、……」 今まで呼吸の使えない自分がまともに剣術を教えてもらうなんてこと今までなかった。 でももし、彼女の言うように呼吸を使わなくても…鬼を喰わなくても、強くなれるなら―――。 「っ、竈門さん…俺、強くなりてェ…!兄貴に謝るために、柱に近付くために…!」 勢いよく立ち上がって、月子の両手をギュッと力強く握り込んだ玄弥。 月子は無表情を柔らかいものに変えて玄弥の手を握り返すと、『一緒に頑張ろう』と呟くように言った。 「…ヒェッ、あ…ごっごごごごめんなさ…ッ!俺、…手、手ェ握っ……!!!」 いきなり顔を真っ赤にさせた玄弥が振り払うように月子から手を離して、素早い動きで彼女から距離をとる。 玄弥のその様子に月子は首を傾げながら、お館様と悲鳴嶼に向けて文を認めたいから近くの藤の家に向かおう、と木の裏からこちらをチラチラと見ている彼に声を掛けた。 思惑通りになりましたか、なんて皮肉を混じえた書き初めにしてやろうかと考えてやめた。 玄弥の可能性を見出したのは自分で、彼はもっと強くなれると思ったのも事実なのだ。それは誰に強制されたわけでもない。 「…変わったな、わたしも」 どこか愉しげな声音でこっそりと呟いて、月子は自分よりだいぶ後ろを歩く玄弥の手を強引に引いて歩を進めたのだった。 |