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「桜子さま、桜子さま」

名前を呼ばれた。肩を揺すぶられ、脳髄が覚醒してくる。朝白みの早朝に、何処か名前の知らない小鳥が囀る音がすきとおったキンと張りつめた冬気に長く飛ぶ。
億劫な体を起こすとやっこが袢纏を肩に掛ける。抱いて寝たのか掛布団の下に敷いたのか人肌に温かく、しかし、早朝の冷気は痛いぐらいだった。ああ、朝がやってきたと思うのだ。
この夜の名残の凝る空気とやっこが早朝狂いもなく目覚めを促すことで、辛うじて体内時計と外界との時間の狂いを微調整する。たぶん今は辰の正刻。

「ひいさま、」

さて、桜子はこれまたやっこが用意した白湯を飲み、頭の覚醒を促す。着物の替えをと手慣れた手調で揃えるやっこ。それにしても。
もう少し見て居たい幻であった。時折夢が『降りてくる』。それの実際が真か否か。それとも己の空想の産物かと問われれば首を横に傾けるしかなかった。しかし何時か、例えば大切にしていた蹴鞠の場所をその夢のお陰でぴたりと探し当てることが出来た。それから、自分は、うつつの目と夢見の目の二つが備わっているのだ、と当たり前のように得心している。夢と現実の符号は時折起こる。嘘でもよい。桜子にとって夢とは唯一自由で、唯一の慰みものだったからだ。
桜子を姫様と呼び、寸分の互いなく朝を告げに来るこの小僧は、名を弥七と言った。数えで十と二つ。冷える朝だと言うのに、身を包むはドングリ色の衣一枚で腰ひもでそれを止めている。この小僧、見目は大層なびじょうぶで、とおった鼻筋、薄めの口びる。やせぎすで無ければ、色町でたくさんの客引きが出来ようと思われた。しかし、この弥七の仕事はせっせとこの幼子の面倒を焼く、乳母代わりの仕事についている。
弥七は桶を持って顔を拭ってやるとせっせと幼子の装いを変えてやる。億劫そうに袖を通し、されるがままの主に、柔らかい哀の籠った微笑みが浮かぶ。その様相質素な生活がそのやっこのすべてを表していた。
弥七は奴婢の出である。家族は両親を居れて六人。この寺院に口減らしと筈かな生活費を賄う為に売られた。不幸と言っちゃあ不幸だが、何処にでも転がっている様な良くある話だったのだ、こんな話は。ここは名高き江戸での有数の寺院、そんなこんなで泣いて止める幼い兄弟を置いて、人買いに両手首を引かれた。鳥居を潜った時、さぁて、人柱か人身御供か。どうにでもしやがれと高を括った。弥七は家族を其れなりに大切に思っちゃあいたが、腹一杯のおまんまに有りつけたのも数える程、毎日が日銭を賄うのでいっぱいいっぱい。苦しいことは数うちあれど、めでたいことなんざ、一向にやってこない。ここらで終いにしても、何も困らん。よくわからねぇ内によくわからねえ年かさの女が、さて、お前には身に余る栄誉を与えてやろうな、と。
こうしてこの弥七はこの七つの子の身の回りの世話を任ぜられて早二年というわけである。
さて、この桜子、弥七に初めて会った時は7つであったが、その時もまっすぐ切り揃えられた重い黒髪を傘にして、こちらをじいと睨んでいた。紅色の綺麗なおべべを来て、出会いもまた、この部屋。それもその筈、弥七が知るこの二年余り、この座敷から出たのをとんと見たことがない。
確かに、弥七は身に余る栄誉な役割りを与えられたのだ。毎日の食事は給仕され、寝床もある。少ないが仕送りも出来た。自分はついてる。四六時中ついて無くとも多少の自由も許される。しかし、自分の生活に余裕の出れば、ある意味共同生活の送っている小さい赤いおへべの女の子が何なのか気になりだした。桜子は育ち盛りの子供たちの様に、外で遊ばない。蹴鞠のやり方も花札の柄の意味も知らなかった。桜子の一日は湿っぽい六畳間で終始してしまう。本を読んだり、書いたり。一人遊びが得意だった。身に余る光栄。そう、桜子は弥七のくぐったあの鳥居かまえの社の『巫女様』に在らせられたのだ。


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