9
この人に置いて行かれたら、いけない。
寄る辺ない心を抱え先ず始めに私を抱き止めた男の顔が一番に網膜に焼き付いてしまった。初めて分け与えられた事はこれしかなく、からっぽの空白では、不確定で頼りない一念に縋って後を追い掛ける事が私の出来る全てだった。
頼りの男は、存在も希薄で、猥雑な人の波に紛れると完全に気配が絶たれてしまう。多分興味もない、他人にも、自分にも。
猫背気味に怠そうにブルゾンのポケットに諸手を差し入れている。
大股の一歩は私には大き過ぎて、余計の二歩如何にか追い着き、転んで、
『おそい、』
驚くべきことに、しゃがみ込む私の為だけに差し出された、手のひらが眼前に有った。
どうして?この時から?
全くの沈黙が必ずしも苦痛になるわけじゃない。
いつから、私は、
同じ物を見て、同じ物を食べる。一緒に居るのが当たり前になって。
彼と共に行く先が、唯一の道じゃない。既に幾つかの可能性の道が目の前に伸びて続いてる。
じゃあ今は、
息を切らせて、つばをのんで、
何でこうまでして、一生懸命追いかけてるんだろう。
運命なんて、絶対なんて、そんな物は無かったんだって、気が付いてしまった事が、すごくさみしい気分になってしまうのが。
「…………」
どくり、と不自然に心臓が高鳴りだす。
誰か、無抵抗な私を何処か遠くに連れ去ってくれないかな、だったら私は迷う事なく歩むことが出来るのに。
歩道の等間の白線が細く長く続いている。横に伸び錆びた標識を越え、十字路を越え、向こう、更に先に。
この方向が、間違っていないって確信が欲しい。
誰かに、大丈夫だよ、って言って欲しい。
迷惑じゃないって、
きゃあきゃあ笑いながら学校に行くのだろう女学生二人組。今度は腕時計と睨めっこしながらヒールをカツカツいわせてるキャリアウーマン然としたひっつめ髪の女の方みたいに、社会に出て働いて…、其れらもまた私を振り返りもせず素知らぬ顔ですれ違った。
地面から靴底がべったりと張り付いて、膝が上に上がらなくなった。
なに、これ。
恐怖心が私の心に渦巻き始めた。まだ、妖が成りを潜める白日だ。じゃあ、何で
自分にまとわりつく影さえ恐怖の対象になっているんだろう。乱れた白衣の合わせがぐちゃぐちゃに折れていて、私がキツく握り締めていた所為だと分かった。
相変わらず、世間は私に無関心だ。
追いつかなければ、
全てが私を素通りする、こんな、街並みで。
こめかみから汗が滴ったと思いきや、其れは乾いた歩道に、続けて二三黒い染みを作った。
どうやら雲行きの怪しかった曇天から、分厚い雨雲が天を覆ってしまったようだ。
ざあっと。
びちゃびちゃ水の跳ねる音が鼓膜を忙しなく打つ。きゃあっと突然の雨に驚いた声が、曇る。鞄を傘に小走りに掛けて水を蹴散らして足早に去る足音が無くなると、私は一人になった。
白衣が雨水で肌に張り付いて、体温が徐々に奪われていった。でも、雨粒の音よりも生温いものが全身にまとわりつく煩わしさよりも、自分の内に在るものが気持ちが悪い。嫌悪すら感じる。火かき棒を腹に押し込んで全部掻き出してしまいたい衝動に耐えるために、全身を硬くして、辛抱して、ただ待つ。
ああ、こんなの知りたくなかった。
こんな気持ちになるくらいなら、すべて、忘れてしまって。忘却の彼方に放ってしまって、ぬくもりも焦がれる気持ちもすべてすべて、すべて、スベテ。アア―――、だからね、陸先生。わたしは、
『一凛ちゃん、どうかなあ。
な、いい薬があるんだ、ただのこの一服。
どうだ、君の主様はこれで君の魔に刺されることはなくなるよ。
副作用?
ナアニ、ちょっと感覚が鈍くなるだけだ……、これは特別なんだよ。
考えようによっちゃ、これも利点だ。些末事に頭を悩ませる必要もなくなるよ。
君が君らしく生きられるようにサポートしてくれる、素晴らしいモノだ
試してみたくなったろう?よし、よし、私にすべて任せなさい………』
陸先生は、なんて、言ってたかしら。
長く武骨な指先が墨を含ませた筆先の柄を摺り合わせる様に持ち上げる。右側の口角がしなる、まるで残虐な無邪気な子供が新しい玩具を見つけられたが如く。
毎日欠かさず、これを白湯に溶かしいれて一気に飲み干しなさい―――。
コレだ、
泥濘。
生まれくるマグマの如く沸々と煮立ち濃縮され、ぴちゃぴちゃと気泡を弾けされて心を食らいつくす。
何も知らないで、流されるまま生きていけたら、どんなに幸せだったか。
絶望感に無気力に浸るだけの私の体に容赦無く雨は穿つ。
私は、正当な理由が欲しかった。
ふと、視界が陰る。
雨に巻いたてられた土の匂いに他に同時に懐かしい芳香が鼻腔を擽った。
頬に布地のやわらかい感触がした。
どうしたことかしら、塞いでいた耳の手をそっと開くと、はあ、と一時息を止めた、温度の気配。
即席の雨宿りは、彼のブルゾンの裾。差し出され、雨ずくは私を避けて横に流れて行った。
消えて行った筈の彼が、また私の目の前に現れた。
不思議に思って、顔だけを上に上げて伺う。此方を伺うことなく彼方を見つめている。何処を見てるんだろう、何を考えてるんだろう。多分、何処も見てない。ただ、彼は私を迎えに来た。
きれいな稜線を描いた頤から顎へ、ぽたりぽたりと滴る、水。白いむき出しの首元が発光しているようになめらかだ。力強い鎖骨の骨格は男児の証。雨に濡れた所為で普段は隠れている雄雄しいシルエットがくっきりと分かる。
男が被せたブルゾンの袖を引っ張る。
一ステップで翻した体を引き戻し私の前に同じ様にしゃがんだ。
普段は隠れて見えない切れ長の目に、戸惑う私が映り込む。
何て、綺麗な男だろうと思った。
骨ばった指筋の張り付いた前髪を横に払って、「何やってる」無感情の重低音が雨音に紛れて耳に届く。
涼しい目つきに微かな、親愛の情。
その遠慮の含んだ触れ方に、
こうやって、私を迎えに来るんだ。
不安を取り去って、至上の安心感を私に齎す、私の神様。
熱いが胸からあふれ出した。
どうして、こうやって、もう!
絶対泣かない、泣くもんか、これは雨。
目から滂沱に流れ来るものは、額を伝って頬を流れた全て雨の所為。「どうした」先ほどまで、知らん顔でわが道を闊歩していた人の言葉とは思えないほど、憐憫の音に満ちていた。この人はいつから、こんな優しい声色をするようになった。初めはただ、自分の感情のままに、ふるまい、私を顧みようとはしなかった癖に。私との隔たれた時間がそうしたのだろうか。いや、初めから、彼は――、ただわかりにくかっただけで。
「やりすぎたか」回り込んだ人影が、自身のブルゾンで私を包んで、私の顔を見て、はは、と邪気のない、子供っぽい笑い方をした。そして、少し困った顔をして「アンタが悪い」、
「アンタが居ないのがいけない」私の体は優しく抱えられた。
「……、なんだ、」
「ああ、これが―――」
それは私に応えを求めていた言葉じゃなくて、確かめるような、溜息交じりの言葉だったから、掻き消えてしまったけれど。
「アンタが、ここに居るんだな」
ざあっと雨脚が強くなる、車のテールライトがけぶって視界の端でぼやけていた。
綺麗、すごく、綺麗だなぁ。
「嬉しい」
私、夢を見ているのかな。
私、今なら消えてなくなってもいい。私が欲しかったものは今手に入ったんだから。
「もう、どっかいくな」
その言葉をとどめに、私の手を引いた。
ただ、私はついてく。
雨に晒され、腕を引く温もりが無償に切なくて、どうしても、何も理由もどうでも良くなった。何で、これはどうした事ー。
「あ、あの、わ、わたし」
「なに」
「あの、ずっと、」
「はっきり言え、うっとおしい」
「ご、ごめんなさ、」
怒らせたかと思って、体を引く。
寒さで痺れて上手く舌が回らない。其れに、私の一時の感情の吐露を受け入れてくれる確証もない。強い感情は相手に普段を掛ける。
私の感情は彼に届いてしまうんだ。弁える可き感情をぶつけた所で、現状の何が変わると言うのか。私さえ、嫌悪した、物を。
「それで、なに」
「……あ…」
しかし、私の逡巡とは裏腹に、彼の歩みが緩やかになった。そして止まる。ブルゾンのなから、彼を動向を伺う。
そして徐に振り返って、じいっと私を凝視する、額に流れる雨水の美しさ。
彼が私の言葉を待つ。
ああ、待っててくれてる。
私、言ってもいいんだ。
私は彼の神器、私の迷いは伝わってる筈なのに、もう、私の全部は、
「ええ、っと」
「変なこと、言うみたいですけど、ほんとに思ってることで、わかってるんですけど、
言いたくて、すみません、ごめんなさい、ヒルコさん」
大きく息を吸った。
「あの、ずっと、ずっとずっと、ヒルコさんの、あなたの、」
「えっと、あの、だから」
「あの、ずっと、
そばにいて、……い、いたいんです」
「いて、下さい、ずっと、いっしょに、私、神器がどう、とか、ぜんぜんわかんなくって」
「だめ、なしんき、で、でも………、すごくすごく、すごく」
あなたが、好き。
しようがなくて。
そばにいたくて。
独り占めしたい、私だけの主でいてほしい。他の神器なんか、召し上げたりしないで、優しさは全部私だけのものであってほしい。
むき出しの欲望は、いつか、彼の人を、
食い殺してしまうだろう。
「アンタ如きが、
この『水蛭子尊』を縛るのか」
は、と微かに笑って、
「上等」
一帯が無音になる。
誘われ、集まってきた妖共、魑魅魍魎が私を食わんとし、醜い口を大きく開ける。
「来い、一器」
私は光になって、主の元に帰る。
私は、腕となり、足となり、武具となる。
神の器。彼の前に立ちふさがる、穢れた者どもを屠ること、これが私の身命であると。
[ 47/95 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]