5

固く閉じていた双眸を開く。
ぼったいような生ぬるい陽光が眼球を嘗める。さわさわとせせらぎの音がする。
目の前のきらきらと水面が輝いて、銀色に反射する。
手のひらにごつごつとして石の感触がありそれを押して、体を起こした。すこしの疼痛のする頭を押さえ、眩暈から回復すると、状況を確認するためにきょろきょろとあたりを見まわす。どうやら私は河原で寝そべっているようである。川幅は一メートルにも満たない。水底まで見える透明度。深さは多分深く見積もってもくるぶし程度だと思われる。河原の向こうは樹木が茂り、突然そこには重苦しい影の様なものが掛かっていて判然としなかった。私の背後にも同様で、しかし、ただ何処までも、緩やかな蛇の様な道を付けながら、川は向うに伸びていた。
何処に?見知らぬ場所に放り出された不安は、二回目だけれども、目を開けた時常識内の見知ったコンクリートジャングルの町々、人の煩雑とした生活の音、だった。現実離れした明らかに尋常ではない、常識では測れないなにか。生ぬるい停滞した雰囲気を醸すこの辺りは、水がこぶし大の石粒にぶつかる音以外、何も非ず、風は一ミリたりとも吹いていない。頭の奥が痺れて、ぼうとする。傍らに佇んでいたならば、ゆっくりと何も考えられなくなりそうな。ぶるりと、身じろぎする。
知らず頼りとする背中を探した。大声で何度も何度も名前を叫んだ。しかし、応えは帰ってこず、私のなけなしの大声は忽ちこの凝った空気の中に吸収されてしまうように遠くまで届いた感触がない。ま、まさか、本格的に迷子になったんじゃあ…。私は青ざめる。どうしてこんなことになったのか。右往左往するばかりで、生き物の気配も感じ取れない、このさわらで一人……。
目的地を聞かなかった事が悔やまれた。人に会うと言っていたが、それから、狐さんにあって、道を貸す云々で、ああ。もとはと言えば、私が眺めて時間を潰していた雑誌をヒルコさんが取り上げたことが初めで。朴訥な低いトーンで、祝詞を唱えるのだろうか。私以外の名前をなぞる。嫌だ。嫌だ嫌だ。首を振って、余計な思考を振り払う。今はそんなこと考えてる場合じゃない。何かの力に飛ばされた時、はぐれないように腕にしがみ付いた。その一瞬に。無音の時間が訪れた。―オイデ。コッチにいらっしゃイよ。何時ものあの声が。あっと。背中に驚いたような気配をみじみじと感じた。私には分かった。全てわかっている。うん、わかっている。わかってるから。一歩踏み出した。―ソチラのほうへ。直ぐ帰ってくるよ、大丈夫、ダイジョウブ。

どちらに進むかだ。緩やかな斜面を登るか下るか。川筋をたどってゆけば、下方の何処かに付くと聞く。それに、左右の鬱蒼とした暗い影には近寄りたくなかった。分けはいってはいけない、ここは道ではない、と何故か分かる。そろそろと、足元に気を取られつつ、私は沢を下りはじめた。暫くもくもくと足を動かし、川幅が段々大きくなっていくことが見て取れる。そして、ひろい、開けた場所に出る。
其処は、黄色いじゅうたんで、それは四つ葉やオオイヌノフグリ、ぺんぺん草が散見するのっぱらが大きく大きく私を待ち構えていた。そこから、また無効に一本道が続いていて、はてが見えない。途方に暮れる。目的地も分からない、道もしたない。どうしたらよいか分からない。誰もいない事をいいことに、その場の柔らかそうな土の下にごろんと寝そべった。体の疲弊と言うよりも、だらだらと続いた光景に飽き飽きとしてしまったのだ。
息を大きく吸って、ゆっくり目を閉じる。このまま、この地面に溶けていくような、心地いい、不思議な感覚。

クス、クスクスクス

囁くような微かな笑い声が、した。
ぼっと体を起こす。
前後左右、上下。しかし、何もない。

クス、クスクス。コッチよお、こっち。

違う、ちがう。そう、横。あなたのすぐ後ろの。

半信半疑に耳に直接響く声の通りに足を引きずる。
樹木の立つ領域からはみ出した、絨毯の領域を侵す一本があった。
枝葉を伸ばすそれを伺う。青々とした葉が茂り、その間にたわわに実る白桃が鈴なりになっているその、桃の木。甘い芳香が漂い、私はそっとその実の一つに手を伸ばした。

チョット、触らないでチョウダイな。

ミが落ちてしまったらドウシテくれるの。

どろぼう、どろぼう、この不調法モノ!

ざわざわと声がざわめく。

「ご、ごめんなさい!」

手を咄嗟に引いて、改めて桃の木を見た。
当たり前だ、桃は話すもの、生きてるんだもの、お話ぐらいする。と当たり前の事だとその時には納得づくで、私の中でそれが常識だった。
だから首を傾げて、続けて聞いた。

「あの、私、道に迷ってしまって。道を教えてほしいんですけど」

クスクス、クスクス

「何かおかしいこと言いました?」

へんなの、へんなの。

へん、へえん。

桃の木はなおもころころと笑い続けている。






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