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「一器!」 

その名を呼ばれると、私は私でなくなる。
ひゅうっと頭が真っ白になって、後は訳が分からなくなる。

「アンタ、なんで答えない」

意識が遠くなったかと思うと、決まって私はヒルコさんの腕の中で思い瞼をこじ開けなくてはならない。
時折ぶつりと途切れた記憶の断片を繋ぎ合わせて、此処は何処、この人は誰で私は何の所から記憶を掘り起こさなければならない。
一種の健忘症(けんぼうしょう)に頭を悩ませながらも、これも幽霊になった弊害(へいがい)なのかも知れないと深く追求しなかった。
と言うのも、私はこの夢見たいなのんびりした旅を終わらせたくないと願っていた。そのためなら余計な瑣末(さまつ)事なんか、端(はし)っこに捨てて置いて、余計な事を聞いてしまったらやぶ蛇になってしまうだろうとこの頃になると固く固く信じるようになっていた。完全にタイミングを逃した。
それが代えがたい人に大きな誤解を生んでしまったのだけれど、それを知るのはまだまだ先だった。今の私には目の前の彼の言う事が全てで、それ以外の事は知らなくていい事、だった。
元々無口なヒルコさんは、時折ぼっとしている私を深く言及(げんきゅう)せずに、私をしゃんと立たせると黙々と歩くのを再開させるのだった。

「なんでだ」

だけど、この時は少し様子が違って、不貞(ふてい)を咎(とが)める夫のように神経質にイライラと体をゆすって珍しく食い下がってきた。

「答えるって、何がですか?」

私は疑問を疑問で返す。
だって、まず、質問の意味がそもそも意味不明。
それに、まだ、あのよくわからない現象のせいで頭が判然(はんぜん)としないのだ。
頭が空っぽで、苛立たしげなヒルコさんの口調にも、碌(ろく)な思考が働かなかった。

「アンタは、オレに不満でもあるのか」

ぶすっと、口をへの字に曲げる。

「別に、そんなこといってないじゃないですか」

私もなんだか向きになってしまって、お座なりにヒルコさんに言い返す。

「だったら、なんでオレを無視する。
アンタはオレの声に答えなくてはならない」

何時も私に興味を移さず、こんな風に不機嫌を前面に出されて詰問(きつもん)されたのは初めてだった。
冷え冷えとした冷淡な命令に、冷や水を浴びせかけられたように背筋が凍りつく。これは眠気にかまけて思考鈍らせている場合ではないと、やっとここで危機感を覚えて右膝を拳で力いっぱい打った。
いつものんらりくんらり、意思疎通の言葉も単語の一言二言で終わってしまうので、あんまり思った事は胸にしまって置く方なのだなと思っていた。しかし、今の口調には明らかな険(けん)がある。
普段怒らない人が怒りを露わにしているということはそれくらいの事を知らずに私は何かしてしまったのだろう。無自覚だったなら余計に達が悪い。


「ご、ごめんなさい」

てもとの白衣を握り締め、手が震える。
突然の一喝(いっかつ)は私の体を恐慌(きょうこう)状態に陥れた。直接向けられる激昂(げきこう)がただ怖かった。

ぎっと上目で相手を睨む。一瞬ぎょっとした様子を見せたヒルコさんだが、やがて処置無しといった微妙な顔をして罰が悪そうにガシガシと頭を掻いていた。そのお座なりな所作が更に私を不安にさせる。
この時の私は泣きそうな顔をしていたに違いない。



道中、拒絶の背中を追いかけながら、自分の悪かったところを必死に考えていた。
ヒルコさんなりの仲直りの打診のつもりだったのかも知れない。歩調が遅い私を慮って、「疲れた?」とヒルコさんが手を不意に伸ばした時に思わず体がビクついてしまって、さらに空気が最悪なことになった。

「アンタ、オレが怖い?」

悄然(しょうぜん)と縮こまっていた私に掛けられた言葉がそれで、狭窄(きょうさく)した世界がぱっと広がって、喧噪(けんそう)が戻ってくるが、相変わらず世間は私なしで回ってて、目を配るものは居なかった。
無関心の中で唯一俯いた顔を神妙そうにのぞきこんでいるヒルコさんがいる。
怒っていると言うよりも困っていると言うヒルコさんの顔が眼前に有った。珍しい。
私と目が合うとふいと視線を逸らし、あーと首に手をやって「隠さなくても分かるから」とぽそぽそと罰が悪そうに呟いていた。

「アンタがオレが嫌でも、アンタはオレの物だから」

ポツポツと聞こえるか聞こえない声でそれだけ吐き出すと、ヒルコさんは元の無表情に戻っていた。しきりに首の辺りをさすっている。「諦めて」本当に申し訳なさそうに。

目をぱちぱちさせて、私はヒルコさんを見やる。

西日に染まったヒルコさんの横顔は、遠くを見ていて、癖のある黒髪が風にさらさらと弄(もてあそ)ばれていた。
通った鼻梁(びりょう)に形の良い少しつった目じり、ヒルコさんの全貌を私はこの時初めて見ることが出来たのだった。

ヒルコさんはと言うと、突然はた、と首を掻き毟(むし)る手を辞めて、以降動きが止まる。どうしたんだろうと訝しむ前に私の顔を二度見して、それからまじまじと見つめてきた。

「オレはアンタが益々わからない」

ヒルコさんは頭を掻いた。

「余計な当て推量だな」



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