あれから2週間が経とうとしていた。
家中を探しまわったけれど、引っ越し先の手がかりを見つけることはできなくて。
当然のことながら向こうから連絡はなく、かといっておれからの電話に出ることもないため、声すら聞いていない状態だ。

「…お先。お疲れさん。」
「お疲れさまでーす。」

あいつが出ていってから少し変化したことがある。
まず、家の中が静かで広く感じること。
ふたりで住んでいたんだから当たり前なのかもしれないが、それでも妙に落ち着かない。
次に、以前よりも女遊びがつまらなく感じてしまうこと。
これに関してはおれ自身不思議で仕方ない。
咎められる心配もないのだから好き勝手出来るはずなのに、女を持ち帰ろうとも思わないし、それどころかべたべたと引っ付かれると疎ましいとさえ思ってしまうのだ。
…そして女を相手している時に限らずふとしたことで思い出すようになった、あいつのこと。
まあその殆どはあいつは化粧が薄かったとか服はシンプルなものが好きだったとか、本当にどうでもいいようなことばかりだが。

「おい」

エレベーターの到着を待っているおれにかけられた声の主は、同期であり古くから付き合いのあるマルコだ。
何か会いたくねえな。
そうは思うものの無視するわけにもいかず、顔だけ向けると。

「…話してえことがある。」

屋上。
それだけ言うと、マルコはくるりと背を向けて歩き出す。
問わずともその内容を知ることが出来たのは、付き合いの長さとそいつの表情のせいだと思った。

ーー


「、げほっ!」

鈍い音。
着いて早々、手加減無しに殴られた。
バランスを崩したおれはそのままコンクリートの地面に倒れこむ。

「フィルに謝れ。」

余計なものを最大限に省いたマルコの言葉。
おれはこいつに何も話していない。
となればマルコはあいつと会って事を知ったんだろう。

「…はっ、やっぱりかよ。」

血の味がするから、どうやら口の中を切ったらしい。
立ち上がる際に見たマルコの表情はいつもとそう変わらないが、それなりに怒っていることくらいはわかる。

「あいつとはもう終わった。それでいいだろ。」
「なら何でお前の周りは静かになった?」

何も言い返せなかった。
女遊びに楽しさを感じにくくなっていたおれの周りは、マルコの言う通り以前に比べれば随分と静かになっている。
理由は明白。
ただおれの中にある変なプライドみたいなものが邪魔をして、素直にそのことを認めようとしなかっただけなんだ。
痛いところを突かれて顔を背けることすらできず、言葉に詰まったおれを見てマルコは呆れたようにため息をつく。

「思ってもねえこと口にすんじゃねえよい。サッチ、フィルに謝れ。」

あいつに非がないことくらいわかってる。
あいつが別れを選んだ原因が全ておれにあるのに、まだ一言だって謝れていない。
けれど。

「……連絡、とれねえんだよ。」

自分で口にした言葉がつきりと響く。
別れる前ならあいつがおれからの電話を無視するなんてことはありえなくて、たとえ出れなかったとしてもその時はメールか何かを必ず寄越してきた。
行き先を言わないなんてこともなかったし、どうしたってこんなことは初めてで。
あいつはおれを拒んでる。
声も聞きたくないんだろう。
視界に入れたくもないんだろう。
それくらいあいつは、おれのことを。

「…あいつはおれと一緒にいたくねえのさ。だから」
「泣いてたぞ、あいつは。」

泣いて、た?
何で。
思考が停止したおれを見て、マルコは苛立ったように胸ぐらをつかんできて。

「理由なんてひとつしかねえだろい!」

ーー


思い返せば、おれはあいつを何かと後回しにしていた気がする。
あいつがおれから離れることなんてないと思っていたから、蔑ろにして、それはどんどんエスカレートして。
あいつといる時間だって短くなったし、名前だってろくに呼んでやらなかった。
どうしてあいつはおれを咎めなかったんだろう。
言ってもおれが直さないと思ったから?
それとも逆に怒られると思ったから?
…いや、それ以前におれに対して本心を晒せなくなったんだと思う。
おれが、おれの態度があいつをそうさせたんだ。

「…出てくれねえか。」

仕事終わり、一向に変化のない携帯の画面に向かって呟く。
これで1ヶ月はあいつの声を聞いていない。
…おれがあいつ以外の女全員と関係を切ったとき、過去のおれを知るやつはみんな驚いていた。
言い返せる立場じゃないのはわかっていたから、そんな周囲の声は適当に流したが。

(…フィル)

あいつは疲れてるとき、何も食べようとしねえんだよな。
溜め込むばっかりで吐き出すこともしねえし、それが過ぎるとぶっ倒れちまう。
なのに「大丈夫だ」つって聞かねえ、不器用なやつ。
ふいにあいつを思い出してしまい、言い様のない苦しさに襲われた。
おれ自身が原因であいつを失って、手も届かなくなって。
なのに。
後になってから思い知らされる、あいつの存在の大きさ。
どうしてもっと大事にしてやらなかったんだ。
何でもっとあいつのことを見てやらなかったんだ。
後悔ばかりで本当にどうしようもないおれだけど、それでもあいつに会いたくて、謝りたくて。
あいつが怯えない程度にメールや電話を何度もし、知り合いには片っ端からあいつの引っ越し先や様子を聞いてまわった。
けれどこれといった情報は手に入らず、思い付く限りのあいつが行きそうな場所にも足を運んでみたが、今だにあいつの姿を見つけられていない。

(…もう一回、あそこ行ってみるか。)

こんな状況でも諦めようと思わないのは、あいつの方がおれよりもずっとつらい思いをしてきたはずだから。
なのにあいつはそんなおれのことをまだ想ってくれていて、その証拠に繋がりを残してくれている。
本当に拒むつもりなら連絡先なんてとっくに変えているだろう。
早くあいつに会いたい。
会って、謝って、それから、

「…何だよ、」

会社を出ようとするおれの前に現れたのはマルコだった。
仏頂面のまま近づいてきたマルコが何も言わずに突きつけてきたのは、一枚の小さなメモ用紙。
そこにはおれの知らない住所と部屋番号が書かれてあった。
問わなくてもわかる、あいつがいる場所だ。
どうやって知ったんだとか何で教えてくれるんだとか、訊きたいことはたくさんある。

「何してやがる、さっさと行かねえかい。」

けれど、今はそれよりも。
薄く笑うマルコに短く礼を言い、その場を後にした。

ーー


ドアの前に立つおれの息は完全に切れていた。
ここに、あいつがいる。
どくりと脈打つ心臓を感じつつも呼び鈴を鳴らせば、小さな機械から聞こえてきたあいつの声。
それが、何だかひどく弱っている気がして。

「フィル、おれだ。」

瞬間聞こえた、戸惑いの声。
それは当然喜びを表すものではないんだろうが、構わずにおれは続ける。

「話がしたい。開けてくれ。」

情けないことに、おれの声は震えていたと思う。

「…話すことなんてないよ、ねえ、お願いだから、かえって、」

素直に会ってもらえるなんて思っちゃいない。
けれどいざ拒まれてしまうと体の奥が苦しくなると同時に、それを招いた自分に腹が立った。
堪えるように手をきつく握り締める。

「おれにはあるんだ。フィル、頼む。」

絞り出した言葉を最後に、静かになった。
一切の物音も聞こえず不安になって視線も落ちてしまうが、それでもただひたすらに願う。
しばらくすると何か固い音が聞こえてはっと顔を上げれば、中からチェーンの外れる音が聞こえてきて。
その後本当にゆっくりと、静かにドアが開いた。

ーー


視線も合わせてもらえないまま奥へと案内された。
部屋に着くとそのままぺたりと床に座り込んでしまったフィルはさっきから一言も口にしようとしない。
向かいに座ってからぐるりと見渡した家の中は生活感がなく、まるで触れてもいないかのような印象を受けた。
何もかもが整いすぎていて、不自然な空間。
視線をフィルへと戻すとやっぱりフィルはどこか弱々しく見えて、それに別れる前よりも痩せている気がした。

「…今までのこと、本当に悪かったと思ってる。」

フィルは顔を上げてはくれない。
目は伏せられていて、その表情は暗い。

「お前のこと、少しも大事にしてやれなかった。…ごめんな。」

そっと手を伸ばし、出来るだけ優しく髪に触れた。
フィルが少し息を詰めたのがわかったが、拒否はされなかったのでやわらかいそれをゆっくりと指ですく。

「…おこって、る?」

小さな声。
顔は上げてくれなかったものの、会話をしてくれたことに安堵する。
髪をすく手はそのままに静かに理由を問うと。

「電話、…一度だって、とらなかった。」

メール、も。
途切れ途切れに話すフィルは前と少しも変わっちゃいない。
被害者はお前の方なのにそんなことで罪悪感を感じるなんてさ、どれだけ優しいんだよ。

「…そうさせたのはおれだからな、怒ってねえよ。」

少しでも安心してほしい。
そう思いながら頭を一度だけ撫でた。
それっきり黙ってしまったフィルに、今度はおれが同じ質問をし返す。
前はフィルの気持ちを聞かなかったから。
少しだって聞いてやろうとしなかったから。

「……つら、かった。」

怒っている。
そう言われた方がまだよかったのかもしれない。
フィルはきっとおれのことをぎりぎりまで信じてくれていたんだ。
いつかおれが女遊びをやめてくれると信じて、ずっとずっと待ち続けて。
なのにおれが裏切ったせいで、こいつはこんなにも。
ふとフィルを見るとその体が小さく震えていた。
こいつはまた、泣くのを我慢している。
その震えをどうにか止めたくて、気がつけばおれはフィルを抱き寄せていた。
腕の中の身体は軽くて細くて、実際にはあり得ないのに壊れそうだとさえ思った。
フィルはおれを拒むことをせずされるがままで、けれどやはり何も喋ろうとしない。
そのことが余計に苦しく不安で、考えを打ち消すように腕に力を込める。

「…戻ってきてくれ。」

その体が少し固くなった気がした。
当然だろう。
また傷つくかもしれないんだ、不安にならないわけがない。
おれが片手を離してフィルの頬に触れると、考えていたことが伝わったのかフィルはゆっくりと顔を上げてくれた。
ようやく合った目はやはり不安に揺れてしまっている。

「…信じられねえのはわかってる。けど約束する。今度はお前のこと、大事にするから。」

そのあとまたうつ向かれてしまったが、おれは何も言わずにフィルの返事を待った。
そうしてすぐ近くで声が聞こえてきたのは、長い長い沈黙の後だった。

「… 」

喋ったというより息の音が聞こえたといった方が近いのかもしれない。
けれど、フィルの言葉は確かにおれに届いた。
おれの名前。
どうしたと静かに問うと、フィルはまたおれを呼ぶ。
おれは問い返すことを止め、その代わりに腕に一層力を込めた。
すると。
とうとう我慢しきれず泣き出したフィルが、まるでその言葉しか知らないみたいに何度も、何度もおれの名前を繰り返していく。
これ以上距離をなくすなんて出来ないのに、それでもおれはフィルをもっと感じていたくて抱き締めなおした。
どれくらいそうしていただろうか。
いつの間にかフィルは泣き止んでいたけれどおれから離れようとはしなかったし、おれも放そうとはしなかった。

「なあ」
「…な、に?」

口を開いたのは無言が気まずかったからではない。
聞きたいこと、話したいことが本当にたくさんあったからだ。
謝りたいし礼も言いたい。
身体だって心配だし、おれがいない間のことも聞きたい。
だけど。

「…何でもねえ。」

今は、このあたたかさを感じていたかった。

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