サッチさんはずっと無言だった。
車の中も、降りてからも、部屋に入ってからも。
サッチさんが何を考えているのかがわからず、そのことが余計に怖くて私からは何も話すことができなかった。
すごく居心地が悪くて、息苦しくて、でも足はすくんで動かなかった。
どうして何も喋ってくれないのか、何か話してほしいのに、怒っているならそう言ってほしいのに。
いろんな気持ちが混ざってどんどん大きくなり、とうとう我慢ができなくなった。
涙が溢れ、こぼれ落ち、その量は減るどころか増えていく。
静かな部屋には私のしゃくりあげる声と、時々鼻をすする音が響いた。
みっともない、情けない、泣くなんてしたくなかったのに。
一向に止まる気配のない涙を袖で拭っていると、いつの間にかサッチさんが目の前まで来ていた。
その顔は怒っているようでも呆れているようでもなかったけど、それが何なのかは読み取れなかった。

「…ぎゅってしていい?」

言われたことを理解するのに数秒かかったと同時に、さっきのサッチさんがどういう気持ちだったのかがわかった。
サッチさんはきっとどうしていいかわからず、困り果てていたんだと思う。
その証拠に、私が小さく頷くとサッチさんはゆっくりと丁寧に、それでいて恐る恐る私を抱きしめた。

「せっかく来てくれたのにあんな態度取っちまってごめん…怖かっただろ。…怒ってた?」
「…さいしょ、だけ。でもあとで考え直したら私が悪かったなって…。体調が良くないのに無理矢理会おうとしたから…ごめんなさい、」
「謝らなくていいよ。おれもフィルちゃんが風邪ひいたとき強引に部屋上がったし…何となくわかるから。」

サッチさんの体温と優しげな声、それと私を包んでくれる手が、強張っていた気持ちをだんだんと溶かしてくれる。
もう怒っていないことが、サッチさんの雰囲気と時おり私の背中を撫でてくれる手のひらから伝わってきた。
安心感でもっと泣いてしまいそうになってサッチさんの体に頭を預けると、今度はあやすように優しく頭を撫でてくれる。

「…あの、」
「何?」
「前電話したとき、サッチさん風邪ひいてないって嘘つきましたよね…?」
「…うん。嘘ついてごめんな。心配かけたくなくて…」
「……何も出来ないかもしれないですけど、でも…心配くらいさせてほしいです…」

私の自己満足かもしれない、それでも。
うつ向きながらサッチさんの服をつかむと、しばらくあとに息を吐く音が聞こえてきた。
不安になりながら見上げたサッチさんの表情は優しげに崩れていて、その眉も下がっている。

「…そうだ、そりゃそうだ。おれだってそうだったな。」

サッチさんは申し訳なさそうに笑ったあと、謝るかのように私をぎゅっと抱き寄せた。
とんとん、と背中に当てられる手が安心感を与えてくれる。
どう話したらいいかあんなに悩んでいたのに、サッチさんのあったかさに触れた今は、素直に想いを伝えることができる。

「…電話、拒否してごめんなさい、メールもずっと返さなかったし…」
「もういいって。そんなに謝らねえでくれよ。」
「でもさっきまで…」
「?…さっきまで?」
「……さっきまで怒ってませんでしたか?私が連絡を一切しなかったせいだと思って、だから…」

マルコさんは怒ってないって言っていたけど、でも
ここに来るまで…さっきまでのサッチさんは確かに怒っていた。
サッチさんがマンションの前で待っていたのも私と連絡がとれなかったことが原因だし…。
不安になりながらも様子をうかがうと、私の予想とは違ってサッチさんは気まずそうな…何とも言えない表情をしている。

「…サッチさん?」
「いや、その…怒ってたのは怒ってたんだけど、何て言うか……自分に腹が立ってた、かな。だからフィルちゃんは全然悪くねえの、本当に。」
「…ずっとですか?」
「…ずっと。けどフィルちゃんが泣いてるってわかったら…一瞬で頭冷えた。不安にさせてごめんな。」

サッチさんは私の頬をそっと撫でたあと、触れるだけのキスをしてくれた。
大丈夫、安心して、もう怒ってないから。
そんなことを伝えるような、とても優しいキス。
でも一度だけじゃさみしくて、もっと安心させてほしくて、もっともっとサッチさんに触れていたくて。
私が求めるしぐさをすると、サッチさんはふっと笑って何度も何度もキスをくれた。

「……あ、あの、」
「ん?」
「、もう大丈夫です、だから」
「だーめ。おれが満足してねえ。」

いつの間にかキスはじゃれるようなものになっていて、サッチさんからも私からも笑い声がこぼれていく。
不安だった気持ちも、苦しかった気持ちも全部なくなって、あったかい気持ちで一杯になるんだ。
くすぐったさに負けて笑いながら体を離すと、サッチさんも何の陰りもない様子で笑っていた。
サッチさんの笑う姿を見て安堵しながら、もう今回みたいなことはこりごりだなあと思う。

「でも…結局何に怒ってたんですか?」
「、……」
「サッチさん?」
「…終わったこと掘り返さねえの!それよりほら!拒否設定解除して!まだでしょ!」
「あっ、そういえば…」
「やっぱり!早くする!」
「は、はい、」

急いで鞄から携帯を取り出し、設定を解除する。
私が謝るとサッチさんは一度だけ首を横に振って、それから私を抱き寄せた。
おれの方こそ、と謝ろうとしたサッチさんに今度は私が首を横に振り、そして一杯に気持ちを詰め込んで抱きしめ返した。
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