この喫茶店に来てまだ五分も経っていないだろうけど、その短い間に私が惚けてしまった回数はどれくらいだろう。
お店に入る際、ドアを開けてくれたときの楽しそうな表情にまず一回。
店員さんとやりとりをするその姿に一回と、席に案内されたときに「奥どーぞ」と示してくれた姿にまた一回。
座って軽く一息つく瞬間と、メニュー表を一緒に見る際に距離が縮んだ瞬間、それから最中に盗み見た悩む顔にそれぞれ一回。
それから私が決まるまで外を眺めて待っているリラックスした姿に一回と、私の視線に気がつくとぱっと笑顔になったその顔に一回。
「どれ?」と尋ねながら水を飲む何てことない姿さえ目が追ってしまう。
もしかしたら私が忘れてしまっただけで本当はもっと回数が多かったかもしれない。

「すいません」

大きすぎず、けど小さすぎず。
軽く手を上げながらサッチさんが店員さんに声をかけた。
その横顔にまた見とれてしまって…ああもう、私ってば本当にどうしちゃったんだろう。

「スコーンのセットとケーキセットをひとつずつ。ケーキはこれで。」
「かりこまりました。ドリンクは如何いたしましょう。」
「コーヒーと紅茶を。両方ホットでお願いします。」
「紅茶はストレート、ミルク、レモンとございますが…」
「どうする?」
「!」

急に振り向いたサッチさんにどきりとして思わず体が強張った。
店員さんの問いかけは当たり前といえば当たり前なんだけど今日の私は本当にいっぱいいっぱいで、更には気持ちがふわふわ浮わついているせいでそんなことにさえ頭が回らないんだ。
え、ええと、何にしよう、普段ならミルクって答えるけど私サッチさんの前じゃだいたいそればっかりな気がするしちょっと大人っぽくストレートとかレモンにした方がいい?で、でもあれ?って変に思われたりしないかな。
…というか早く決めないと!

「えと、…ストレートで、」
「ストレートですね。かしこまりました。」

真っ白になった私の頭はちょっと見栄を張りたかったようだ。
メニュー表を下げた店員さんは席を離れていく。

「ちょっと意外。ミルク頼むと思ってた。」
「あ、その…」
「まあケーキ甘いしちょうど良いかもな。」

本当はそんなことこれっぽっちも頭になかったんだけど、サッチさんはそれっぽい理由で納得してくれたようだった。
私がばれないようにほっと胸を撫で下ろしていると、ふと前から視線を感じて顔を上げる。
それは当然サッチさんからのものだったけど、目が合うと何だか堪らなく恥ずかしくなってきて思わず店内に視線を逃がす。

「結構歩いたな。疲れた?」
「い、いえ、大丈夫です、」
「ベポでかいよなあ。荷物になるし後にすりゃよかったかな。」
「そ、そんなことないです、そこまで重くないし今は隣に置けるから…」
「そっか。」

明るいその声にサッチさんの表情が想像できてしまい余計に落ち着かない。
他の席からは楽しそうな話し声が聞こえるのに…私たちのところだけ浮いてしまっているような、そんな感覚すら覚える。
何か話題をと必死に考えを巡らせるけど、思い付くどころか頭の中が更にぐちゃくちゃになってしまって焦る一方だ。
なぜこんな状態になったかというと、理由はひとつ。

(前が見れない…!)

私は今、決して前を向いてはいけない。
向いてしまったら最後、私の心臓はすさまじい悲鳴をあげる決まっているからだ。
そんなことになったら今よりももっとひどい精神状態になること間違いない。
ただでさえ緊張でまともに喋れないのに、目も合わせられないなんて。
ここに来るまでは隣を歩いていたからまだ何とかなったけど、こうして対面させられてしまったら逃げ場が全くないじゃないか。

「フィルちゃん」

それでも名前を呼ばれると反射的に顔は上がる。
そんな私をサッチさんは一目見て、それからくしゃりと表情を崩すからたまらず顔を背けてしまった。
途端に心臓はうるさくなり、顔がどんどん赤くなっていくのが自分でもわかる。

「ふむ、こりゃ大変そうだ。」
「え?な、何がですか?」
「さあ?何でしょうね。」

聞こえてくる圧し殺したような笑い声はもちろん目の前の人から。
サッチさんははっきりと答えてくれなかったけど、そのあとも度々私を呼んでは楽しそうにするその姿になんとなく、なんとなく察しがついて。

(店員さん早く来て…!)

じゃないと恥ずかしさのあまり逃げ出してしまいそうだ。

- ナノ -