「ナマエー」

ベランダから顔を出して私を呼んだのは小さい頃からよーく知っている人物。
私の両親が共働きで家ではひとりでいることが多くて、その間私の面倒を見てくれたのが近所に住むサッチお兄ちゃんだった。
私よりも一回り年上のお兄ちゃんは話上手で料理上手、それに運動もできて優しいから同い年の異性と話をしているよりお兄ちゃんといた方が何倍も楽しくて、学校から帰ったらお兄ちゃんの家に遊びに行くなんてことが常だった。
今はお兄ちゃんもコックとして働いているし、私も大学に進学したから会う頻度も減ったけど…時間が合えば家に上がり込んで喋ったり、一緒に遊びに出掛けたりもする。
それこそ、恋人みたいに。

「お邪魔しまー…あ!いいにおいする!これ何!?」
「チーズケーキだ。出してやるから安心しろ。」
「わーい!…あれ?」

いつものように本でも読んで待っていようとリビングへ向かった私は、その光景にぴたりと足を止めた。
たくさんあったはずの料理関係や漫画の本はどこにも見当たらないというか…部屋にあった物がほとんどなくなっていて、その代わりに目についたのはいくつかの段ボール。
これじゃあ、まるで…。

「ねえ、お兄ちゃん…」
「んー?」
「お兄ちゃん…どこかに引っ越すの?」

何でだろう、心臓がどくどくと嫌な音を立てる。
よく見るとキッチン周りも物が減っていたし、残っているものもいつも以上にきれいにまとめられていた。

「ああ、…まあな。」

そう答えたお兄ちゃんは目を合わせてくれなかった。
お兄ちゃんはそのまま私の横を通りすぎて先に腰を下ろすと、ケーキとお茶を用意しながら私も座るように促してくる。
戸惑ったまま私が座ると、お兄ちゃんは少し困ったような顔をしながら頬を掻いた。

「前おれが尊敬してるって言ってた人いたろ。その人におれのところで働かねえかって誘われたんだ。…二ヶ月前くらいか。」
「白ひげさんだよね。有名なホテルの社長さんなんだっけ。」
「ああ。」
「…いつ引っ越すの?」
「…三日後だな。」

告げられた言葉に自分でも驚くくらい動揺してしまって返事が出来なかった。
白ひげさんのホテルはとても大きくて世界からも認められるホテルらしい。
そんなところに誘われたのはすごいことだし、おめでとうとかよかっただとか…本当はそんな言葉をかけなくちゃいけないってわかってはいる。
なのに私が真っ先に思ったことといえば、それとは反対のことばかりだった。

「向こう行ったら滅多なことじゃ帰ってこねえと思うしお前には言っとこうと思ってたんだが…悪いな、遅くなっちまって。」
「ううん。…そう、なんだ。」
「どーした?おれに会えなくなるのが寂しいってか?かわいいこと言うじゃねーか。」
「そ、そんなんじゃないから、」

お兄ちゃんがおどけた調子で前髪をくしゃくしゃと乱してくるので、動揺を誤魔化すように手で払った。
他の男の人にこんなことをされたら嫌でしかないけど、お兄ちゃんだからこんな気持ちで受け入れることが出来る。
もっと遊びたいと思うのも喋りたいと思うのも、一緒にいたいと思うのも、全部全部お兄ちゃんだから。

「まあおれならすぐ上にあがれるだろうし、そうなりゃお前のこと招待してやるよ。楽しみに待ってな。」
「何その自信。」

遠くに行かないで。
ここにいて。
それが私の本心だったけど、それを言えるわけがなかった。
私とお兄ちゃんの関係は一見近いように見えるのに実際は遠すぎる。
本当はもっと早くに自分の気持ちに正直になるべきだった。
けどそれをしなかったのはこの居心地の良さを失いたくなくて…今の関係を壊してしまうのが怖くて逃げていただけなんだと思う。
逃げていたせいでこんな結果になってしまったわけだけど、どちらにしろもう遅い。
私たちの関係はここで行き止まりなんだ。

「わたし…そろそろ帰るね。ごちそうさま、おいしかったよ。」
「おう。急に呼んで悪かったな。」
「ううん。…お兄ちゃん、あのね、」
「ん?」
「…おめでとう。がんばってね、応援してる。」

返事を聞くのも苦しくて早々にドアノブに手をかけたその瞬間、後ろから抱きしめられた。
背中からお兄ちゃんの鼓動も体温も全部伝わってくる。
耳元に落とされた声は普段と変わらなかったけど…どうしてだろう、私にはすがられているような気がしてならなかった。

「ありがとな。…お前も風邪引くんじゃねえぞ。」

ずるいよ、こんなの。


◇リクエスト内容◇
近所のお兄ちゃん隊長さんで、近くて遠い曖昧な関係
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