午前で授業が終わった帰り道、木造の洒落た外観に何となく惹かれて入ったのは今から約一年前のことだ。
ドアを開けた瞬間、コーヒーのいい香りに包まれたのを覚えている。
初めての来店に加え、コーヒーのことに疎かった私に店長さんは優しく丁寧に、それからちょっぴり気さくに接客をしてくれて。
それ以来、毎週水曜日の午後は小一時間をそこで過ごすようになった。
15人も入らない少し小さめの店内は不思議と居心地がよく、様々な年代のお客さんでいつも賑わっている。

「いらっしゃい。」

その一言と明るい笑顔がいつも私の心を動かす。
カウンターから声をかけてくれたのはこのお店の店長、サッチさんだ。
明るくて気さくで、誰にでも優しくて、仕事中の楽しそうな姿や時おり見ることのできる真剣な表情は私の意識をさらってしまうに容易くて…気がついたら私はこの人に恋をしていた。
もしかしたら一番最初…あのときに気持ちが動いていたのかもしれない。
でもこれは最低限のやり取りしかしない、ただの客である私の一方的な恋。
どう考えても叶わない恋をするくらいなら諦めよう、今日で最後にしようと決めてお店に行ったこともあったけど、その度にサッチさんの姿に目を奪われて…どんどん好きになってしまうんだ。

「よ。今日どうする?いつもと一緒か?」
「はい、お願いします。」
「オッケー。」

親しげな笑顔を向けてくれるこの人はアルバイトのエースさん。
ここに何度か足を運ぶようになったころ、世間話も兼ねてエースさんから声をかけてくれたのを切っ掛けに仲良くなったんだ。
実はサッチさんの名前を教えてくれたのはエースさんで、私がサッチさんを目で追いかけていたところを偶然見て勘づかれたみたい。

「おまたせ。ゆっくりしてけよ。」

目の前に置かれたコーヒーから広がる香りに、ゆっくりと胸が満たされていく。
そっとカウンターの方へ目を向けると、サッチさんは常連さんらしい男の人と楽しそうに話をしていた。

(私もあんな風にサッチさんと話せたらいいのに。)

自分にそんな勇気はないけれど。
淡い気持ちに蓋をし、そっとコーヒーを一口含む。
「おいしい」と思わず言ってしまいそうになるのを堪え、その代わりにあたたかい息をほっと吐き出した。
明日からまたがんばろう、そんな気持ちになれる大切な時間なんだ。

ーー


「お待たせ。ほら、いつもの。」
「…ありがとうございます。」
「…お前ってわかりやすいよなあ。」
「……気を付けます。」

苦笑いを浮かべたエースさんが、去り際に私の肩をぽんと軽く叩いていく。
翌週もお店に足を運ぶと、何人か来ているお客さんの中でとある若い女の人が目についた。
その女の人は多分私よりもこのお店によく来ている常連さんで、座る場所もだいたい同じ。
カウンター席…サッチさんの正面だ。

「あ、サッチさん髪切りました?」
「後ろを少しだけ。よく気がついたね。」
「サッチさんのことよく見てますから。」
「そりゃ恥ずかしいな。手元が狂っちまいそうだ。」

楽しそうなふたりの表情にちくりと胸が痛んで、思わず視線を外してしまう。
本当は私もサッチさんと話がしたいだけなんだ。
あの人みたいに積極的な行動を起こせない私はただの意気地無し。
ひとりで落ち込んで、勝手に僻んで…ああもうだめだ、こんな気持ちじゃ良い時間は過ごせそうにない。
はあ、と音にならない程度にため息をついていると、また耳に届いてきた会話。
聞きたいような、聞きたくないような…そんな私の揺れる気持ちにかまうことなく、私の元まで聞こえてくる。

「へー、じゃあサッチさんって結婚されてないんですか?」
「そ。独身。」
「付き合ってる人は?」
「いいや。店始めてからはずっとかな。」
「えー?もったいないですよ、サッチさん素敵な人なのに。」

視線だけ動かして盗み見たサッチさんは、女の人の言葉を聞きながら流れるような手つきでコーヒーをいれていた。
私には会話をするふたりが特別親密そうに見えてしまう。

「ははっ、ありがと。」
「本当ですって。欲しくならないんですか?彼女。」
「んー…そりゃ、まあ。店に夫婦とか恋人同士で来てくれるお客さんがすげえ仲良さそうにしてたり…そういうの見たときとか、あとは…何かふとしたときとか?」
「ほら。私サッチさんの彼女に立候補しちゃおうかなー。」
「おれなんか止めときな。それにおれ、追いかける方が性に合ってるし…はい、いつもの。」
「ありがとうございます。サッチさんのコーヒー飲むとほっとするんですよね。それに…」

サッチさんの一言にとどめをさされたような気がしてしまう。
いつもは居心地が良いこの時間も、今は苦しくて仕方がない。
そっと残りを飲み干して席を立ったあと、エースさんに会計をお願いした。

「もう帰んの?」
「はい。ごちそうさまでした。」
「…来週も来いよな。待ってるぜ。」

エースさんの優しさに触れながらお店を後にする。
どうしてあんなに遠い人を好きになってしまったんだろう。
届かないこの気持ちに、私はまた胸を痛めるのだった。
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