「フィルー」

土曜日の朝。
朝ご飯の準備をしているとサッチさんの弾んだ声が私を呼んだ。
こんな朝から何か良いことがあったのかなあと思いつつリビングへ赴いた私を待っていたのは、自信たっぷりの顔で一枚の紙を見せるサッチさんだった。

「…『今日一日、おれは『フィル』と『好き』しか喋りません。サッチ』…。」

私が戸惑いのまま読み上げると、サッチさんは満足そうに頷いてから紙を下げる。
サッチさんは面白いことや楽しいことが好きだけど、時々こういう変わったことを思い付くんだ。

「…もう始まってます?」
「すきー」

ぎゅう、という効果音がぴったりと当てはまるくらいに抱きつかれる。
どうやら好きは肯定の意味にもなるらしい。

「…今日もいい天気になりそうですね。」
「すき。」
「…ご飯できましたよ。食べますか?」
「すき!」

何だろう、ちょっとかわいい。
そう思ってしまってぶんぶんと首を横に振ったあと、不思議そうな顔をしたサッチさんを連れてキッチンへ向かった。

ーー


「洗濯物取り込んでくれたんですね。ありがとうございます。」
「すき。」
「あ、私たたみますよ?せっかくのお休みですし…」
「すき!すきー!」
「わ、わかりました、じゃあお願いしますね。そのあとお茶にしましょう。」
「すき!」

どうなるかと思ったけど、案外会話が成り立っているから驚きだ。
サッチさんがまるで幼児にでもなったような感覚にちょっと楽しんでしまっている自分がいることは内緒。
こんなの他所の人には絶対見せられないなあ。
キッチンでコーヒーと紅茶を用意していると後ろからスリッパの音が近づいてきて、私が振り向く前にぎゅっと背中をおおわれた。

「フィルー、すきーすきー。」
「もう終わっちゃいました?こっちももうすぐですから…」

そこでとある音に会話が中断する。
リビングから聞こえてくるそれにふたり揃って向かうと、テーブルの上で振動しながら機械音を鳴らす携帯がひとつ。
その携帯の持ち主は私じゃなくて…。

「サッチさん、電話みたいですけど…」
「……」

ここにきてサッチさんがものすごく真面目な顔をして黙った。
ディスプレイを見るに、相手はマルコさんのようだ。
仕事のことか個人的なことかはわからないけど…目の前で鳴っている電話をとらないわけにはいかないだろう。
例外というものは何にでもあるものだ。

「「…」」

私がじっと見守る中、サッチさんは至極真面目な顔のまま携帯を手に取り耳に当てる。
もしかしたらそのまま取らないんじゃないかという私の小さな心配はこれでなくなったわけだ。

「サッチか?休日に悪いな、少しいいかよい。」
「すき。」
「…は?」

私はもうびっくりして声が出なかった。
思わず手で口を覆ってしまうほどだ。
電話の相手は私ではないし、サッチさんもしっかりと相手の名前を確認したというのに。

「…サッチだよな?」
「すき。」
「…頭でも打ったか?」
「すき?」
「……切る。後でメールするよい。」
「すーき。」

多大な衝撃を受けて言葉を失っている私の目の前でサッチさんは耳から携帯を離すと、おもむろに立ち上がりとある紙を持ち帰ってきた。
朝、私に見せたあの紙だ。
サッチさんはその紙をテーブルに置き、携帯を構えてそのままパシャリと音を鳴らしたので私もいい加減に気がついた。

「サ、サッチさんだめです!絶対だめ!」
「すきー!」
「絶対送らせませんからね!サッチさんが良くても私はだめなんです!」

休みの日はずっとこんなことしてるなんて思われたら大変だ!
懸命に携帯の奪取を試みるも力やリーチの差を埋めることはできず、私が悲しみの声をあげるのはあと十分後のことだった。
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