ポットから急須にお湯を注ぐ。
朝のゆったりと平和な時間が流れる部屋にとぽとぽと愛嬌のある音が広がって自然と笑顔になるんだ。
…さて、あの人はまだかなあ。
蓋をしてから時計を見たちょうどその時、静かな朝が終わりを告げた。

「あー!!」

やっと旦那さまのお目覚め。
淹れたてのお茶を味わっていれば、しばらくして聞こえてきたのはどたどたと階段をかけ降りてくる音。

「フィル!何で起こしてくんなかったんだよ!やべえ!遅刻する!」

上三つほど開いたカッターシャツに、飛び出しているベルトの端。
ネクタイと上着と鞄を左手に抱えて登場したサッチさんの髪はワックスをつけたみたいにくしゃくしゃだ。

「もう三回も起こしましたよ。なのに自分で起きるっていうから…」
「そりゃあれだよ!『もう…サッチさん起きて?じゃないといたずらしちゃいますよ?』的な起こし方を期待してだなあ!」
「それこそ遅刻まっしぐらです。ほらほら、時間ないですよ。」

はっと時計を見たサッチさんは表情を変えると洗面台に直行する。
しゃこしゃこと歯を磨く音と顔を洗う水の音、そしてそのあとの髪をセットする静かな時間はいつもよりもずっと短い。
私がお茶を飲み終えたところで急ごしらえのオールバックを携えたサッチさんが慌ただしく戻ってきた。

「朝どうします?」
「食う、じゃねえと昼までもたねえ、」
「おにぎりしてますけどそれでいいですか?」
「…こうなること想定済み?」
「お茶は熱いですよ?」

こんな朝だけどサッチさんは熱いお茶の方が好きだから。
サッチさん愛用のコップにお茶を注いでおにぎりと一緒に差し出せば、それらはあっという間に消えていった。

「…ごっそさん!」
「はい、お弁当です。」
「サンキュ!えーっと書類入れた、鍵持った、それから…」
「ネクタイは…」
「着いてからやる!そんじゃ行ってきます!」

ああもう、そんなに慌てるから。
嵐が過ぎ去ったあとのテーブルの上には携帯が取り残されている。
今からじゃもう間に合わないだろうなあと思いつつも手に取って玄関へと向かうと、本人も気がついたようでタイミングよくドアが開いた。
どうぞと持ち主に渡そうとすれば、一瞬で距離がゼロになって。

「…ひひっ、行ってきますのちゅー。」

ついでにこれも。
そう言って私が持っていた携帯を上機嫌で掠め取るサッチさん。
携帯がついでだなんて普通なら逆じゃないのかなあと思うけど…サッチさんだと違和感がないのが不思議だ。

「もう、…あとひとつ忘れてます。」

不思議そうにするサッチさんに触れるだけのキスをひとつ。

「おはよう、まだでしたよ?」

みるみるうちに赤くなるサッチさんの顔。
私がとんとん、と腕時計を示す仕草をすればやっと優先事項を思い出したらしい。

「ッ、ああくそ、…帰ってきたら覚えとけよ!」

さっきよりも荒々しく家を出るサッチさんの後ろ姿に私はつい頬を緩めてしまうのだった。
- ナノ -