いつもの朝、いつものやりとり。
靴を履いて立ち上がったサッチさんに渡すものは決まってお弁当と水筒。
でも今日はそこにもうひとつ。

「はい、お弁当です。」
「ありがとなあ。」
「あとこれも。」
「ん?……、!!」

手のひらに乗るほどの小さなカード。
それを見たサッチさんの顔はみるみるうちに変化して、最後には目を見開いて固まった。

「『ユートピア』ってすてきな店名ですね。…昨日機嫌が良かったのはこのお店のおかげですか。」

うっすらピンク色のかわいい紙に美しい書体で印刷された金色の文字。
昨日の夜、上機嫌で帰ってきたサッチさん。
最初は取引先の人たちと飲んでくるって言っていたからお酒が入ったせいだろうと思っていた。
けどすれ違い様のスーツから漂う甘いにおいに引っ掛かって…お風呂に向かったサッチさんの服をこっそり探ったら出てきたのがこれだ。

「あ、あ、フィル、ちが」
「メッセージも付いてましたね。『サッチさんまた来てね。楽しかったわ(はあと)』…そうですか楽しかったんですねよかったですね。」

ご丁寧にキスマークまで付いている。
サッチさんはぶるぶると怯えながら私を見ていて、その姿はまるで子犬のようだ。

「い、いやフィル、きいてくれ、これは付き合いで」
「あ、もう時間ですね。いってらっしゃい。」
「!フィル、おれの話を」
「帰りはその子のところで楽しんできたらどうです?待ってくれてるみたいですし。」

サッチさんの情けない声を無視してキッチンへと足を進める。
こんなに勢いよくドアを閉めたのはいつぶりだっただろう。

ーー


「ただいまー…。フィルー…?」

チャイムが鳴って、鍵を開ける音がして。
間違いなくこの家の主なのに弱々しい声で家の中に入ってくる。
普段なら玄関に向かうところだけど今日は返事さえ返さず読書に没頭しているふりをする。

「…タダイマ。」
「…早かったんですね。お店、お休みでしたか?」
「悪かったって!けど本当に付き合いで行っただけなんだよ。信じてくれって…。」

必死な顔をしてしがみついてきたサッチさんを一別したあと、ふいと本に視線を移す。
サッチさんは嘘をつくような人じゃない。
あのお店もサッチさんの言う通り付き合いで行ったんだろう。

「そ、そうだフィル、お前の好きな店でケーキ買ってきたんだ。」
「……」
「ほら、開けてみ?」

つやつや、きらきら。
箱を開ければ、おいしいよと自ら主張するように甘いにおいと宝石のように光る四つのケーキが私を誘う。
どれもこれも私が好きなものばかりで、つい頬が緩みそうになるのを必死で堪えた。
私のすぐ隣でサッチさんが様子をうかがっているからだ。

「うまそうだろ?あとで一緒に食べよ?な?」
「……」
「フィルさーん…」
「…サッチさん。」
「!は、はははい!どうした!」

サッチさんは会社でも上の方の立場だ。
私には職場の人たちのことは話してくれるけど仕事のことについてはそこまでで、でも大変なことや辛いこと、それに我慢しなきゃいけないこともたくさんあるんだからストレスだって溜まるだろう。
だからせめて家ではと思うのに、付き合いなんだから我慢しなきゃとわかってはいるのに。

「付き合いでいろんなところに行くのはわかります。…けど、ああいうのは見たくないです。…ごめんなさい。」

毎日たくさん好きだって言ってもらってる。
こんなにも大事にしてくれている。
なのに、たった小さな紙切れ一枚で不安になって拗ねてしまうなんて私は何て我が儘な子どもなんだろう。
視界がぼやけだして鼻をすすり始めたころ、ぎゅうとサッチさんの腕に抱かれた。
そのあたたかさに我慢していたものがぼろりとこぼれる。

「何でフィルが謝んの。」
「…こども、みたいだから、」

すがるように抱きしめ返すと、サッチさんは私の背中をとんとんと当ててくれる。
けど今はそれだけじゃ物足りなくて顔を胸に押し当てれば、あやすような声で謝罪の言葉が降ってきた。
それからやっと気持ちが落ち着いてきて、拘束力の弱くなった腕からゆっくりと抜けだす。

「…何回も言うけどな、おれはフィル一筋だっての。社内じゃ一番の愛妻家で通ってんのに。」
「…そうなんですか?」
「そうなの。…フィル、飯食った?」

ふるりと首を横に振る。
朝出掛ける前はあんなことを言ってしまったけど、本当はいつものように一緒にご飯を食べたかったからだ。
それを見たサッチさんはぱっと顔を明るくした。

「じゃあ食おう。そんで風呂はいってそのあとケーキ。な?」
「…はい。」
「あ、弁当うまかったぜ。ごちそーさん。」

言い合いをしたときや不安になったとき、それにすれ違ってしまったとき。
いろんなことがあるけど最後にはサッチさんが笑ってくれて、その姿にいつも私は安心するんだ。
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