あの場所から一時間もかからない場所に予約した店はあった。
建物自体はきれいだがそれなりに歴史があるそこは屋敷のような外観である。
普段こんなところを利用するなんてしないだろうし、驚いてしまって歩を進めようとしない彼女に代わり先に玄関をくぐった。

「マルコ様ですね、こちらへどうぞ。」
「ああ。」

落ち着いた色の廊下を進み奥の部屋へと通される。
楽に四人で使うことができそうなテーブルと二枚の座布団が置いてあるだけの和室なのだが建物の外観、それに内装を見た彼女は慣れない雰囲気の場所に落ち着かない様子だ。

「個室なんだから楽にすりゃいいよい。それに作法も何も気にしねえとこだしな。」
「で、でも私こういうところ初めてですし、」

そう言いながらおれと目があった途端、慌ててそらす彼女に内心苦笑する。
個室にしてやはり正解だったなと思っていれば戸を叩く音に続いて先程の仲居が鍋を持って入ってきた。
手際よく準備を始める姿に彼女は背筋を伸ばしながら見入っていて緊張しているようにも思える。
一通り段取りが終わったところであとはこちらでやると告げれば、仲居は丁寧に頭を下げた。

「かしこまりました、ではご用の際はそちらから申し付けください。ごゆっくりどうぞ。」

ふたりになった途端彼女の肩から明らかに力が抜けたので思わず笑うと恥ずかしそうにうつ向かれる。
そんなやりとりをしながら鍋をすすめればおいしいと素直に気に入ってくれたようなので、だんだんといつも通りに戻ってくる彼女に安心しながら箸を動かした。

「…ナマエ、少しいいかよい。」
「?はい。」
「あのな、今日は特別…ってわけでもねえんだがその、それでも普段とは違う日っつーか…」
「どうしたんですか急に。」

いまひとつはっきりとしないおれを可笑しそうに彼女が笑う。
こういうところできっぱりと言い切ることが出来ればいいんだろうが…我ながら情けないなと思ってついため息が出そうになった。

「今日って何かあるんですか?」
「…誕生日なんだよい。」
「そうなんですね、おめでとうございます!…で、誰のですか?」
「……おれの。」

それを聞いた彼女がぱちぱちと目を瞬かせていたのはほんの数秒で。
理解が済むと身を乗り出しながら彼女らしからぬ声の大きさでおれの名前を呼ぶので反射的にびくりと姿勢を正してしまった。

「何でそんな大事なこと早く教えてくれなかったんですか!?」
「い、いや」
「知ってたらプレゼントとか用意したのに!そういえば前聞いたときはぐらかされたし…もう、何で今の今まで黙ってたんですか…。」

声はだんだんと勢いがなくなり、最終的にはしゅんと視線を落とされてしまう。
その姿に少なくない罪悪感を感じて頬を掻けば、不満を表すようにじとりとした目に曲がった口が帰ってきた。

「黙ってたのはまあ…悪かったよい。けどなナマエ、おれはもう誕生日だからって特別祝ってほしいとか何か贈ってほしいとか…そういうこと思わなかったんだよい。」
「…私はお祝いしたかったですけど。プレゼントもしたかったですけど。」
「…悪かった。」
「……じゃあ何で今言うんです?」

何で、と言われても困る。
おれだって最初はそんなつもりはなかったんだ。
だが彼女が照れる仕草や恥ずかしそうな表情をおれに見せてきたりすればいくらおれであっても期待してしまって、考えが変わってきてしまって。

「その…何だ、我慢できなかった。」
「え?」
「やっぱり特別な日にしたくなったんだよい。…ナマエに祝ってほしい。」

誕生日なんてこの歳になれば普段の日と何ら変わりない。
そう思っていたのに彼女といると今までにはなかった欲が出てきてしまう。
それは抑えきれないものになってしまって、とうとう口から溢れ出た。

「好きだ。」

言うことを言ってしまうと先程までどくどくとうるさかった心臓は落ち着きをたどる一方で、自分でも驚くくらいすんなりと冷静になれた。
あとは彼女の返答を待つだけなのでいつの間にか渇いていたらしい喉のために茶を流す。

「…マルコさん、」
「ん?」
「そっち、いってもいい、ですか」
「…ああ。」

彼女は何だか機械的な動きで。
なおかつ決して遅くはない早さでこちら側へ来ると、そのまますとんとおれの隣に座る。
耳まで真っ赤にした彼女はかたくなに顔を上げようとはせず、それでもおれのそばを離れようとしないから。

「ナマエ」

つい口許が緩んでしまう。
頬をとり上を向かせた途端おろおろと視線をさ迷わせる彼女がかわいくて仕方がない。

「…祝ってくれるか?」

耐えかねて目をぎゅっとつむったナマエが小さく首を縦に振ればもう我慢なんてものはできなくて。
ぎりぎりにすり減った理性を総動員させつつ、けれど逃がすものかと両腕をまわして何度も口づける。

「や、マルコさ、待って、」
「黙ってろよい。」
「マルコ、さ」

ああ、これはまずい。
自分から仕掛けておいて何だが歯止めがきかなくなりそうだ。
もう終えた方がいいと頭ではわかっているが、しかしながらもうどうにも止まれそうに…

がらっ

「いやあ!すまんの、顔出すのが遅れてしもうて…」

突然現れたそれなりに馴染みのある店主。
ばっちりと合ってしまう視線。
流れる沈黙。
そして上昇するおれの体温。

「…まままたあとにするわい!どどどうぞごごゆっくり!」

ぴしゃりと戸が閉められたと同時に唯一何もわかっていない彼女がくたりともたれかかってくる。
今ならおれは恥ずかしさで死ねると思った。
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