半年前のあの日からこの研究室に通っているけど入るときはいまだに躊躇してしまう。
軽くドアをノックすると、中から「入れ」という素っ気ない返事が聞こえてきた。
…私以外の来客時にもこんな返事なんだろうか。

「失礼します。」

部屋の中は本で埋め尽くされていて、私だったらタイトルを見ただけで遠慮してしまいそうなものばかり。
床にだってそこらじゅうに本が積まれているから、片付いているなんてとてもじゃないけど言えない。
人のためのスペースといえば窓際に置いてあるソファーとこの部屋の主がいるデスク周りくらいだろう。

「…まだかかる。」

視線だけ寄越して呟くようにそう言った先生は狭いスペースで器用にコーヒーをいれ、そのあとはいつものごとく研究を再開。
先生のいれてくれるコーヒーは毎回ものすごく苦い。
過去あまりの苦さに砂糖がほしいと伝えてみたことがあるけど、「自分はブラック派だから置いていない」と一蹴された。

「そこ、倒すなよ。」
「はい。」

この人…サッチ先生は理化学分野の教授だ。
そして私の恋人。
けど私はゼミ生でも何でもないし、ただただ先生が担当する必修の講義を受けていた一学生。
先生との接点はほぼ無いに等しかった。
ところがある日突然この研究室に呼び出され、レポートのことで何かあったのかなと思っていた私に先生は「好きだ」と告げてきた。
あのときの衝撃は今でも忘れられない。

「今日は遅かったな。」

ご丁寧に鍵までかけて壁際に私を追い込んだ先生は、私がイエスと言うまで解放してくれなかったのだからさらに驚きである。

「さっきの講義が長引いて…。」
「そうか。」

先生は寡黙というか…あまり必要以上に喋らない人だ、口調は淡々としているし表情も変化に乏しい。
けどそういう姿が女生徒から人気で、先生に憧れを抱いているといった話をちらほら耳にする。
確かに先生は格好いい、格好いいとは思うけど実際付き合っている私としては先生が何を考えているかがさっぱりわからないのだ。
せめて私のどこを好きになったのかくらい教えてくれたっていいと思う。

「(昨日とシャツが同じだし…また泊まってたのかな。)」

ソファーから仕事中の先生を眺めるのは私の日課。
先生から発信してくれないので、必然的に私が先生から読み取ることになるからだ。
けど所詮は視覚からの情報だし、たとえ私が訊ねたとしても先生は都合が悪かったり答えたくないときは黙りこんだり軽く流したりするから結局得られるものはそれほど多くない。

「…先生、昨日帰らなかったんですか?」
「ああ。」

話したりキスしたり、それ以上のことをしたり。
私たちのデートはほぼ全てがこの部屋。
さすがにご飯くらいは行ったことがあるもののそれも2、3回程度で、先生と遊びに出掛けるといったこともなければ買い物すらも行ったことがない。
本音をいえば一緒に出掛けたり買い物なんかも行ってみたいところだけど…先生は何かと忙しいみたいだから毎日こうやって部屋に入れてもらっているだけでも喜ぶべきことなんだと思う。

「(…先生、もっと自分のこと喋ってくれないかなあ。)」

先生への気持ちがゼロからスタートした強制交際だったけど少しずつの会話と観察、それにごくたまに見せる優しさとか。
知らず知らずのうちに惹かれて、今の気持ちに至るまでにそう時間はかからなかった。

「(…最初の頃と逆転しちゃった。)」
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