俺と桔平は付き合ってるわけじゃない。
付き合っていた過去もない。
今後付き合う予定も………たぶん、ない。
「…は?」
「いや、だから…恋人が、な」
週末の仕事帰り、同じく仕事を終えた桔平と待ち合わせて行きつけの飲み屋に行くのはもう毎週の定番になっていた。
今日もそうして待ち合わせをして、お互い程よく酒が入った頃、桔平がぽつりと呟いた。
恋人が出来た、と。
「へぇ、ほなこつ?相手誰ね?」
「職場の同僚」
「俺会うたことあっと?」
「いや…たぶんないんじゃないか?お前中等部の教師知らないだろ?」
昔から桔平は、遊び人ってほどでもないがそこそこモテる。
そのほとんどのカノジョもカレシも俺は知ってるわけで。
学生時代こそ桔平と遊ぶ時間が減るとかちょっと寂しいとか思ったものの、今は俺も大人。
親友の久々にきた春を素直に祝えないほど子供じゃない。
「良かったばい。桔平、あんまりにも恋人作らんきにその年にして枯れたかと思っちょった」
「…お前に言われたくないけどな」
日本酒を傾けながら桔平は笑った。
左耳を掻く仕草は桔平が照れている証拠。長い付き合いで知った癖。
桔平の恋人はこの癖を知っているんだろうか。
「もうこの年だし、結婚も視野に入れるべきなんだろうな」
「そげん言うほどよか恋人やと?紹介せんね」
結婚なんて言葉が桔平の口から出たことに笑いが漏れる。
出会った頃俺達はほんの子供で、結婚なんて現実が自分に身近なものになるなんて思ってもいなかったのに。
「…いや、結婚なんてピンとこなくて、な」
「それ、恋人が聞いたらショック受けるんじゃなか?」
「はは、そうかもな」
桔平が結婚、なんて一番ピンとこないのは他でもない俺だ。
その時俺が桔平を祝えるのかどうかさえ想像出来ない。
俺は桔平に恋愛感情を持っているわけじゃない。
持っていた過去もない。
今後持つ予定も………たぶん、ない。
だけど俺には割り切れない感情が多すぎる。
桔平と別れて家に帰ると、親父がリビングで酒を飲んでいた。
「おかえりー。橘先生元気やった?」
「…うん」
俺は親父の向かいに腰を下ろす。
いつもならすぐに金ちゃんの寝顔を見に二階に上がる俺が座り込んだのが余程珍しかったんだろう。
親父はちょっと目を見開いて、でもすぐに俺の前にもグラスを置いた。
「飲む?」
「うん」
「高いんやで、このウイスキー」
「…高い酒は口に合わんばい」
「俺もや」
注がれた液体を黙って見つめていると、親父も何も言わずにグラスを傾けた。
「………結婚とかって、せんといけんもんかね」
呟いた言葉に親父は吹き出した。
「それ、俺に聞くんか」
「聞く人間違えた」
「せやな。…けどまぁ、したい奴はしたらええんちゃう。何事も経験やし」
「経験豊富な人が言うと説得力あるばい」
「やかまし」
今夜の俺は、妙に飲みたい気分らしい。
親父に倣ってグラスを煽る。
高い酒はやっぱり俺には美味く感じなかった。
翌朝は酷い気分だった。
飲み慣れない高い酒をアホみたいに飲んだせいだ。
心の中で親父に恨み言を言う。
一階に降りると、既に親父は仕事に出ていていなかった。
昨夜あれだけ飲んでた癖に、化物だ。そういえばザルだった。
痛むこめかみを指でぐりぐり押していたら小春が二日酔いの薬を出してくれた。
「ありがと、小春ちゃんは気ぃ利くばいね。よかお嫁さんになれっとよ」
「あら千ちゃん、嬉しいわぁ。今朝御飯用意するさかい」
正直食欲はなかったが、黙って出されたものは食べた。
「千里が二日酔いになるほど飲むん珍しいな」
「大人は色々ありますやろ、謙也くんと違て」
「何やねん、小坊が大人ぶりよって」
いつも通りの謙也と光の掛け合いに笑顔を返す。
落ち込んでるわけじゃない。嫌なことがあったわけでも。
何となく、左耳を掻く桔平の姿が頭から離れないだけで。
翌週、恒例になっていた飲み会は久しぶりに中止になった。
きっとそうなるだろうと思っていたから、別に落ち込みはしなかった。
「……………」
ぽっかり空いた金曜日の夜、俺はたった今桔平からの断りが入った携帯を握ったままぼんやりと会社で立ち尽くした。
「…白石、何してるんだ」
「…ブチョー、たまには飲みに行かんね?」
珍しい俺からの誘いに手塚ブチョーはちょっと首を傾げて、頷いた。
家に遅くなる旨を連絡するブチョーの背中を見ながら、頭を過るのは「結婚」の二文字だった。
「ブチョー、結婚って、しあわせ?」
「何事も楽しいばかりじゃない」
「…うん、そうっちゃね」
あまり盛り上がるとは言い難いけど、ブチョーと飲むのは嫌いじゃない。
色々考えられるから。
桔平は
桔平は、今恋人と一緒にいるはずの桔平は、しあわせだろうか。
大人になるっていうのは、子供の頃思っていたよりも、自由じゃない。
自分の気持ち一つ分からない俺は大人になれているだろうか。
その日から、何となく桔平には連絡しなくなった。
桔平からも何も連絡はなかった。
「…へぇ、そうなんスか」
「うん、噂やけどな」
桔平と連絡を取らなくなって1ヶ月くらい経ったある日、家に帰って部屋に戻ろうとする途中、謙也と光の部屋から声が漏れ聞こえてきた。
「ちゅーか付き合っとることも知らんかったッス」
「付き合っとるんは本人に聞いたから間違いないわ」
最近は小学生や中学生でも惚れた腫れたで盛り上がるとや。
微笑ましくて笑いが溢れる。
「せやけど、別れるん早いやんなぁ」
「まぁ橘先生元ヤンやし」
でも次いで聞こえてきた言葉に、俺は考えるより先にドアを勢いよく開けていた。
「ぉわっ!びっくりした!」
「千里兄、おかえりなさい」
「今の、ほなこつ?」
「は?」
光の挨拶にただいまと返す余裕もなく謙也に詰め寄る。
恐らく俺は相当真剣な顔をしているんだろう。
謙也がちょっと腰を引いている。
「桔平、恋人と別れたと?」
「…あ、ああ。その話?ちゅーか俺も噂で聞いただけやし」
「橘先生やったら千里兄のが詳しいやろ」
挨拶もそこそこに二人の部屋を出て自分の部屋に向かう。
部屋に着いてすぐに携帯を開いた。
「……………」
桔平から連絡はない。
恋人と別れたというのが事実だとしても、このタイミングで俺から連絡してもいいものだろうか。
俺は一度開いた携帯を閉じた。
何かあれば向こうから連絡の一つや二つ、あるだろう。子供じゃないんだし。
いい年した俺が中学生の噂を信じて慌てて連絡するなんて馬鹿げてる。
桔平から久々の連絡があったのは、謙也に噂を聞いて一週間経った金曜日の夜だった。
桔平は特に何か言うでもなく、連絡を取らなかった1ヶ月弱なんて無かったかのように普通に「じゃあいつもの場所で」と言った。
1ヶ月前と同じ行きつけの飲み屋で、1ヶ月前と何ら変わらない笑顔で桔平はビールを煽る。
その顔を見つめる俺に気付いて、桔平は左耳を掻いた。
「あんまり見るな」
「…桔平、フラれた?」
桔平はちょっと驚いた顔をして、笑った。
「フラれたというか、まぁ…別れた」
「謙也に聞いたばい」
「学校でも噂になってるのか…まったく、どこから聞き付けるんだか」
溜め息をついてはいるが、桔平はさほど困った風でもない。
落ち込んでる、というようにも見えない。
「まぁ後腐れなく別れたし、あんまり気まずくもないし、いいんだけどな」
「何で別れたと?」
「…よくあることだよ。些細なことだ」
些細なことほど、綻びは直しづらい。そういうものだ。
詳しい理由は聞かなくてもいい。
「昔ほどじゃなかけん、相変わらず早かねぇ」
「お前ほどじゃない」
「桔平、堪え性がないんじゃなかと?」
桔平は笑いながら俺を小突いた。
「俺も大人になりきれてないからな」
「…お互い様ばい」
「お前は、大人になったよ」
そんなことない。
今だって分からないことばかりだ。
「…桔平は、照れると左耳を掻く」
「何だいきなり。…そうか?」
「うん」
「そうなのか…そんなこと言われたことないけどなぁ」
その言葉にちょっと嬉しくなった。
誰も桔平のこの癖を知らない。気付かない。
俺だけが、知っている。
「…お前は、嬉しいと左耳のピアスを触る」
桔平の言葉に、左耳のピアスを弄っていた手を止めた。
「…ほなこつ?」
そんなこと、他の誰にも言われたことはない。
「昔から変わらないな」
そんなことない。
昔は分からなかった感情が、今はひとつだけ分かる。
触れたままの左耳が、少し熱くなった。
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