その日は俺の人生で一番打ちのめされる一日となった。
いつも通り一番最初に寝る金ちゃんを部屋で寝かしつけて居間に戻ったら、珍しく家族全員が揃っとった。
「…何ね、珍しか。皆揃って何かあると?」
「千里、ええからそこちょっと座りなさい」
親父にテーブルを挟んだ正面の席を指差されて、俺は大人しくその場所に座った。
「…千里、金ちゃんはかわええか」
真面目な顔で親父は切り出した。
その間他の兄弟達は口を挟まずただじっと座っていた。
「当たり前ったい。何言うとると?いきなり…」
「千里、俺はな、兄弟仲がええのはええことやと思うんよ」
「…うん」
「けどな、千里の金ちゃんの可愛がり方はちょっと問題なんやないかな」
「…何が言いたかと?」
親父はふぅ、と息を吐いた。
「千里、お前は今日から金ちゃんを甘やかすのは禁止や」
………は?
無言で見詰め合う俺と親父を見かねたのか、小春が口を挟む。
「このままじゃ金ちゃん、一人やと何も出来へん子になってまうわぁ」
「せやで!小春の言う通りや!金太郎はただでさえ人よりアホな子なんやから…」
当然同意の言葉を発したのはユウジ。
二人は顔を見合わせて「ねー」と手を合わせた。
「まぁいっちゃん下の弟がかわええ気持ちは分からんでもないけどな、お前のは度ぉ過ぎとるで、千里」
「これ以上アホなガキに育ったらどないするんッスか。俺一番絡むこと多いんやから勘弁して欲しいわぁ」
謙也と光も口々にそんなことを言い始める。
俺は救いを求めるように銀じーちゃんを見た。
金ちゃんを可愛がってるのは俺だけじゃない、銀じーちゃんだって相当なはずだ。
銀じーちゃんは俺の視線を受けて珍しく困ったように眉を下げた。
「…いや、千里…ワシも金太郎はんはかわええんやが…」
「親父も金太郎のこと可愛がってるけどな、ちゃんと悪いことは悪いって教えとるで」
親父が自分の親父を擁護した。
「お前はちゃうやろ、ただただ甘やかしとるだけ。今はええかもしれんけど先のこと考えや」
親父は俺を含めたその場にいる息子達を指差して得意げな顔をしている。
「他の子見ぃや。お前もやけど、俺が放任主義で育てたおかげでしっかりした子になっとるやろ?」
「まぁ親父は関係あらへんのですけどね。育てられた覚えもないし」
「ていうか千里に至っては放置プレイしすぎたせいで勝手に九州の高校行ってまうしヤンキーとつるんどったやん」
光とユウジが突っ込んだ。
そんな俺の過去まで持ち出されても困る。
「え…千里ってグレとったん?」
「謙也は小さかったから覚えてへんやろうけど俺は覚えてんで」
「うちも覚えてるわぁ。確か金髪のめっちゃ怖い子やろ?」
「桔平は別にヤンキーじゃなかよ。今は謙也のクラスの担任やってすっかり丸い人間になったばい」
「えッ!………橘先生元ヤンなん…!?」
俺と桔平が顔見知りだということを謙也は知らなかったのか、本気でショックを受けたような顔をしている。
「はいはい、話脱線してんで!千里のヤンキー話は終わりや!」
「元はといえば親父が子供達を育てたなんてつまらんこと言うたからでしょ」
「何でやねん!育てたのはホンマやろ!」
「はいはい、金銭面ではホンマ助かっとりますわぁ。ギャーギャー煩いメス共の相手して金稼いでくれておおきに」
「人をホストみたいに言うんはやめなさい、光」
親父はこほんとわざとらしく咳払いをして場を仕切りなおした。
「とにかく!金ちゃんのこと甘やかしたらあかんで、千里!」
「で、でも…いきなりそんなことしたら金ちゃんも戸惑うばい…」
「心配せんでもあの子はうちん中で一番順応性は高いで」
「俺が朝起こしたり寝かしつけたりせんと金ちゃんの生活は成り立たんったい!」
「そう思ってんのは千里だけや!大丈夫言うてるやろ!」
「けど金ちゃんと一緒にお風呂に入れんかったら俺は何を楽しみに一日生きたらよかと!?」
「光、明日から千里と一緒にお風呂入ったりなさい」
「嫌ッスわ。千里兄と一緒に風呂なんか入ったら狭くて逆上せるわ」
「寝ぼけた金ちゃんを抱っこしてほっぺにチューして起こせんなら俺も起きる意味なんてなかとよ…」
「そんなんして起こしてたんか!ホンマもうお前金太郎にしばらく近づくなや」
しばらくは居間でぎゃあぎゃあと親父に応戦したものの、元々口で親父に勝てるわけもない。
必死の応戦もむなしく最後は銀じーちゃんの「千里、分かったな」という言葉で俺は泣く泣く頷くしかなかった。
翌朝、いつもより早い時間に起きた。
俺は昨夜眠りにつく時からこっそり起きて金ちゃんの部屋に忍び込むつもりでいた。
起こしちゃ駄目とは言われても、寝顔をしばらく見つめてちょっとチューするくらいなら構わんったい…
パジャマ姿のまま静かに襖を開けて金ちゃんの部屋の前まで行く。
「おはよーさん、千里」
「……………」
部屋の前には親父が立ちはだかっていた。
「いつもより早いやんか。何しとるん?」
薄暗い廊下で笑顔が陰になって怖い。
美形の整いすぎた笑顔は人形のようで、俺は怯んだ。
「………いや、ちょーっと金ちゃんの顔を見に…」
「あかん言うたやろ」
「寝顔見るくらいよかっちゃろ!」
「駄目や!お前キリないんやから!」
「クソ親父!」
「この超絶美形絶頂のお父様に向かって何てこと言うてんねん!この風来坊!」
ビュッ!
と何かが勢いよく俺と親父の間を横切る。
何かが飛んできた方向を親父と同時に振り向けば、襖の隙間から光が顔を出していた。
「…今何時や思てるんスか。まだ5時やで。ちょっと静かにしてんかー…」
「「…すいません…」」
寝ぼけ眼でぎらりと睨まれて、俺と親父はこれまた同時に謝った。
ぱたん、と静かに襖が閉まってから光が何かを投げた方向を見遣ると、壁にダーツの矢が刺さっていた。
「あのガキ本気で当てるつもりで投げよったで…俺の顔に傷がついたらどうしてくれんねん…」
「光はワンパクばいね」
「あれをワンパクで済ますんか。お前ホンマある意味危険やわ…」
何となく気が殺がれてしまった俺は仕方なくそのまま部屋に戻ることにした。
部屋へ続く廊下を曲がる時ちらっと金ちゃんの部屋の前を見ると、親父が寝袋に入ろうとしてるところだった。
…ああやって見張っていたわけだ。
もちろん部屋に戻ったって二度寝出来るわけもなく、俺は部屋でダラダラと過ごした。
そのうちいつも起きる時間になって、顔を洗って着替えて居間に下りていく。
いつもだったら真っ先に金ちゃんの部屋に行って起こす前にちょっと添い寝したり寝顔をしばらく見つめたりしとったのに…
居間にはもちろんまだ金ちゃんはいなかったが、その他は全員揃っていた。
「おはようさん、千里」
「おー…」
「せやな…今日から金ちゃん起こすんは千里以外のメンバーでローテーションしよか」
「えぇ〜ッ!アイツめっちゃ寝起き悪いやん!めんどくさっ!浪速のスピードスターには無理っちゅー話や!」
「よし、口答えした謙也からや!行ってこい謙也!」
金ちゃんを起こしに行けるという名誉ある役割を仰せ付かったにも関わらず、謙也は非常に嫌そうに居間を出て行く。
そんなに嫌なら変わって欲しいたい…
つい羨望の眼差しを送っていたら、親父に「千里は朝食の準備しなさい」と言われた。
そこから先は悲しくて言葉にもしたくない。
金ちゃんはこともあろうに謙也の腕に抱っこされて居間に下りてきたのだ。
しっかり首に腕を回して眠そうに謙也の首筋に擦り寄る姿を見た俺は失神しかけた。
少なからず「やっぱり千里じゃないと起きへんで」と謙也が戻ってくることを期待していた俺は非常にガッカリした。
金ちゃんにとっては…別に起こしてくれんのは俺じゃなくてもいいんたいね…
ショックのあまり朝食も喉を通らなく、言葉も出ない俺に、金ちゃんは特に気にした様子はなく俺の分の朝食も食べた。
逆に謙也が気を使ってくれた。謙也は優しか子たい…
とても仕事なんて行ける気分じゃなかったが、学生と違って社会人はそう簡単に休むわけにもいかない。
重すぎる体を引きずって家を出た。
金ちゃんは俺よりも少し早く家を出て行ったが、その時もいつものように俺が玄関まで見送りに行かないことに何の疑問も持たなかったようだ。
今まで俺が全てをかけて注いだ愛情は、金ちゃんにとっては無くても同じようなものだったんだろうか。
そう思うと悲しくなってきて、会社まで向かう満員電車の中で一人泣いた。
「……………」
「いつも一緒に〜いーたかった〜」
「……………」
「隣でーわーらぁっていたかった〜」
「……………」
「季節はーまたーかーわるのに〜…」
「……………」
「心だーけ、立ちー止まったま〜ま〜………」
「…白石、朝からエンドレスで失恋ソングを歌うのはやめてくれ」
一日中書類で鶴を折りながら人が死んだ歌か失恋ソングを歌っていたら、手塚ブチョーに憐れんだ目で見られた。
「何でもないようなことが…幸せだったとおも〜う〜…何でもない夜のーこーと、二度とは戻れないよぉるぅ〜…」
「………間奏を口笛で吹くな」
ロードを12章まで歌い切ったところでとうとう手塚ブチョーに「もう帰れ…」と言われた。
帰ったって金ちゃんと遊べないなら楽しいことなんて何もない。
帰る意味も、頑張って働く甲斐もなくなった俺は完全に廃人状態だった。
帰り道、真っ直ぐ家に帰るのも嫌だった俺はぶらぶらと歩き回り、いつの間にか金ちゃんの通う学校に着いていた。
まだ時間が早いからか、グラウンドでは遊びまわる子供達がたくさんいる。
知らず知らずのうちに金ちゃんの姿を探したが、そこに金ちゃんはいなかった。
金ちゃんは今頃何をしてるんだろう…
たった一日、金ちゃんに触れていないだけなのに、随分長いこと金ちゃんと接していないような気がする。
涙が溢れてきて、俺は年甲斐もなく校門の柵にしがみついて泣いていた。
通り過ぎる子供達が明らかに不審者を見る目で見ていたが、そんなもん俺には関係なか。
「…金ちゃん…」
校門の隅に膝を抱えてしゃがみ込んで泣いていたら、側頭部にいきなり衝撃を食らった。
あまりに不意打ちだったので身構えることも出来ずそのまま倒れる。
慌てて起き上がって顔を上げれば、そこには逆光で顔は陰になっているが、間違えようがない―――
「…き、桔平〜〜〜〜〜…」
「デカイ図体した男がこぎゃんところでしゃがみ込んでたら完璧に不審者たい。TPOを弁えんね、千里」
見慣れた男は俺の頭に容赦なく蹴りを入れてきたらしい。
痛む頭を押さえつつもそれどころじゃない俺は桔平の腰にしがみついてまた泣いた。
「生徒達が怖がって校門に近づけんとよ。お前ちょっとこっちに来んしゃい」
「きっ、きっぺ、俺、おれ…ッ」
「泣きじゃくるな。話は大体謙也に聞いたばい」
桔平に連れられて向かった先はどうやら教室のようだった。
謙也もいるということは中等部なのだろう。
タイミング良く現れたと思ったらどうやら教室の窓から俺が見えていたらしい。
謙也は露骨に呆れた顔をしている。
「校門に来て泣いて蹲る190越えの大男ってどないやねん…」
「だって…だって…」
「大体会社はどないしてん。まだ就業時間じゃないやろ?」
「っ…ずっと、ロード歌ってたら…帰されたと…」
「………千里、お前ホンマ社会人として無いで」
10歳近く下の子供に社会人としての心構えまで説教される日が来ようとは…
「まぁまぁ、謙也あんまり言わんと。千里が末の弟のこと可愛がってるっていうのは俺でも知ってるし…」
「まぁ今回のことで千里が金太郎のことホンマに可愛がっとることは分かったわ…」
桔平がフォローしてくれると、謙也もそれまでの態度を少し和らげた。
「たった半日のことやけどな!」とチクリと嫌味を言うことを忘れずに。
「俺が帰ったら親父に言ったるわ。まぁ俺の言うことなんか聞いてくれるとは思わんけどな…」
「千里、謙也が言っても分かってもらえなかったら俺も言ってやるばい!」
「謙也…桔平…ありがとう…!」
少しこの先のことに希望を見出していると、教室のドアが開いた。
入ってきたのは光だった。
光が中等部の教室に来ることがよほど珍しいのか、謙也は目を見開いて驚いている。
「どうしたん?」
「何や金太郎がうちのクラス来たんすわ。そしたら校門で千里兄がしゃがみ込んでんのが見えて…」
橘先生と一緒だったからここだろうと思った、と光は言った。
光の後ろからちょこんと顔を出したのは、
「金ちゃん…!」
「千里ー!」
金ちゃんは俺の姿を見つけると、飼い主を見つけた子犬のように俺に飛びついてきた。
約半日ぶりの金ちゃんの感触だ…
嬉しくて桔平が見てることも忘れて金ちゃんを抱き上げて教室を走った。
「金ちゃん…!金ちゃん…!ああ本当にむぞらしかね…金ちゃん大好き!大好きばい!」
ひとしきり金ちゃんの感触を堪能して、俺は金ちゃんを膝に乗せたまままた椅子に座った。
これまで全く空気扱いだった桔平、謙也、光の三人は冷めた目を俺達に向けている。
「金ちゃん、何で光の教室に行ったと?」
「あんなー、今日朝から千里元気無かったやろ?ワイ気になってん、光兄に聞きに行ったん!」
「金ちゃん…!気付いててくれたとね…優しか子ばいね…!」
「そしたら光兄がワイのせいやって言うからな?ワイ何かしたんか?」
「金ちゃん…!金ちゃんは何も悪くなかよ!そんなこと言うなんて光は意地悪ったいね!」
「オイ…しまいにゃ俺のせいッスか。ウザいッスわぁ…」
凶悪な顔で光がゆらりと俺達に近づいてきたが、桔平と謙也が空気を読んで光を抑えた。
「ホンマに?ワイのせいとちゃうん?」
「当たり前たい!金ちゃんは何も悪いことなかよ。心配かけてごめんね」
「千里、もう元気なんかー?」
「金ちゃんが会いに来てくれたからもう元気百倍たい!」
無邪気に笑う金ちゃんに、俺の今日一日の憂鬱な気持ちが吹き飛んだ。
「千里に元気になってもらお思てな、絵ー描いてん!」
金ちゃんが渡してくれた画用紙には、お世辞にも上手とは言えない二人の人間らしい絵が描かれていた。
大きな人の横には「せんり」小さい人の横には「わい」
金ちゃんが俺のために二人の絵を描いてくれた…それだけで幸せな気分になった。
「…光、帰ったらお前も親父に甘やかし禁止令解禁しろって言えよ」
「ま、ずっとこの調子でいられる方がウザいッスからね…」
「美しい兄弟愛ばい。兄弟が仲がいい分にはよかことったいよ」
その日の夜、謙也と光の口添えもあって、甘やかし禁止令は廃止された。
「想像はしとったけど、予想より早かったわ」
呆れたように溜め息をついて笑う親父は、少し残念そうに金ちゃんの頭を撫でた。
この可愛い可愛い小さい弟から離れるためには、まだまだ時間がかかりそうだ。
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