赤也がお袋さんに背負われて帰ってきた。
頬や膝に傷を付けて、服は泥だらけ。
憮然とした表情から、またクラスメイトと喧嘩でもして悪魔化したんだろうことは容易に想像がついた。
「…赤也またやったんか」
ブンちゃんが呆れ顔で呟く。
…いや、だがお袋さんが怒ってない。
いつも悪魔化した時は家に帰ってきた途端雷が落ちるはずなのに。
「…赤也」
「俺は悪くないッス」
何も言わず救急箱を持ってきた参謀が赤也の傷にマキロンをぶっかける。
赤也は痛そうに顔をしかめているが反省の色はない。
「…母さん、何があった」
「…赤也のやつ、学校で俺を馬鹿にされたとかで悪魔化しおった」
複雑な表情でお袋さんは呟いた。
自分が原因じゃ怒るに怒れないんだろう。
それを聞いて比呂士が小さく笑う。
「何だ、比呂士」
「いえ…昔の雅治君を思い出しました」
…奇遇じゃのう。俺もちょうど同じこと思い出しとった。
「え、何それ何それ」
ブンちゃんが身を乗り出す。
参謀とお袋さんは黙々と赤也の傷の手当てをしている。
その姿もあの時とそっくりだ。
俺と比呂士は顔を見合わせてまた笑った。
「…あの頃は俺も若かったからのう」
「そんな老け込んだこと言い出す年でもないだろぃ」
あれは、俺が小学3年生の頃の話。
「幸村の母親見たか!?」
「見た見た!何あれ!怖すぎ!」
「あんな母親嫌だよなぁ〜」
うちの兄弟なら誰でも経験しとるけど、俺達の母親は必ずクラスのネタになる。
今なら俺も「そうじゃろう、だがああ見えて意外とロマンチストなんじゃ」とかネタを提供してやるくらいの余裕もあるが、当時は子供。
正直過ぎるクラスメイトの言葉に俺はいちいち傷付いていた。
「雅治君」
「…比呂士」
「ああいうのは相手をしたら負けです」
「…分かっとるぜよ…」
当時から比呂士は今と変わらず紳士だったし、蓮兄も昔からあの通り。
俺は小さな怒りや悔しさを蓄積させるしかなかった。
比呂士や蓮兄に言ったところで俺の感情はたぶん分かってもらえない。
気にしたら負けだ。
相手をしたら負けだ。
そんなこと分かっとる。
でも必死にそう考えて怒りを押し込めとる時点で、俺は負けだった。
「つーか幸村んちの前通るといっつもあの母親の怒鳴り声聞こえるよな」
「あ、度胸試しやろーぜ!幸村んちにピンポンダッシュ!」
「捕まったらシャレになんねーし!」
俺が廊下にいることも知らず楽しげに話し続けるクラスメイト。
俺は拳をぎゅっと握って、耐えた。
別にいじめられていたわけじゃない。
友達だってちゃんといたし、一緒に遊んだりもしていた。
だからこそ余計、俺は怒りや悔しさを押し殺したんだろう。
やり場のない感情が幼い俺を苛んだ。
「雅治!聞いているのか!お前はいつも悪戯ばかりして…少しは蓮二や比呂士を見習え!」
「…うっさいぜよ…」
「何?もっと大きい声で言わんか!」
「…うっさいっちゅーとるんじゃ!そんなに蓮兄と比呂士が好きなら俺なんか捨てたらええじゃろ!」
怒りも悔しさも、次第にお袋さんに向いた。
こんな母親だから俺は苛々してるのに、その母親は俺の気持ちも知らず怒鳴ってばかり。
いっそ捨ててくれ、と、俺はあの頃半ば本気でそう言っていた。
お袋さんは悲しそうな顔をした、ような気もするが、決まってお袋さんと言い合いをしたその後俺は謎の腹痛に襲われていたのでよく覚えていない。
「幸村の家族って、変だよな」
些細なことだった。
クラスメイトにしてみれば世間話の一環のつもりだったのかもしれない。
影ではもっと酷い言い方をされているのも知っていた。
「兄貴も弟も変だし」
「前一回喋ったけど、父親も変だよな」
だが俺に直接語りかけられる家族への侮辱に、俺は目の前が真っ暗になった。
「まぁ一番変なのは母親だけど」
「毎日顔合わすの、嫌にならねえ?」
…そこまでは覚えている。後はよく分からない。
後で比呂士に聞いたところによると俺は泣きながらクラスメイトに殴りかかったらしい。
「お前に母さんの何が分かる」とかこっぱずかしいことも言っとったらしいが恥ずかしいので俺の中で封印している。
所詮子供の喧嘩。でも子供とはいえ本気で殴り合えばそりゃ怪我もする。
無理矢理クラスメイトから引き離されて保健室に直行させられて、やっと俺は落ち着いた。
保健室でお袋さんの迎えを待っている間、隣で比呂士がずっと手を繋いでくれていた。
その手のあたたかさを今も覚えとる。
お袋さんは、複雑な顔をして保健室に現れた。
きっとすぐにまた怒鳴られると思っていたから、少し意外だった。
たぶん喧嘩の一部始終を見てた生徒から聞いた話を教師がお袋さんに全部話したんだろう。
「…俺は悪くないぜよ」
お袋さんが右手を振り上げた。
殴られる。
ぎゅっと目を瞑ると、予想外に大きな手が俺の髪に優しく触れた。
「…ああ」
お袋さんはそれだけ言うと俺を背負った。
「比呂士、雅治の荷物を持ってくれ」
「分かりました」
足にも大袈裟に包帯が巻かれてはいたが、実はさほど痛くない。
それでも俺は大人しくおぶさった。
お袋さんが恐かったからじゃない。
…俺にも甘えたい時代があったんじゃ。察してくれ。
何も言葉を交わさない帰り道。
お袋さんの広い背中でまたちょっと泣いた。
「…ごめんなさい」
「お前は悪くないんだろう?」
「…ちがう、それじゃない、」
「俺なんか捨てたらええ」なんて言ってごめんなさい。
悲しい顔させて、ごめんなさい。
母さんは小さく笑った。
「子供は親に反抗しながら育っていくものだ。反抗されるのも悪くない」
俺はその日から、家族のことをどんなに悪く言われても笑って受け流すことに決めた。
蓮兄や比呂士の言う通りだった。
気にしたら負け。
相手をしたら負け。
俺のきょうだいは正しいことをちゃんと知っている。
…まぁ、俺が暴れた甲斐あって、その後家族の悪口を言う奴なんかいなくなったんじゃけど。
「…下らん昔話してしもたぜよ」
話が一段落する頃には赤也の傷の手当ても終わっていた。
「そんなことねーよ、いい話じゃん」
ブンちゃんは少し目元を濡らして、それをごまかすようにお茶を一気に飲んだ。
「嘘みたいな話じゃろ」
「うん、今の雅兄からは想像もつかねーな」
「そう思うのも分かるぜよ。でもこれ全部嘘のお話じゃ」
……………
「………嘘かよぃ!!!」
少しの間の後、ブンちゃんは勢いよくお茶を吹き出した。
はよ拭きんしゃい、お袋さんに怒られるぜよ。
「ふっ…ざけんなよ!ちょっと感動しちゃったじゃねーか!」
「プリッ」
比呂士が意味ありげに視線を送ってくるのをウインクで応える。
「困った人ですね、雅治君は」
「…比呂兄、マジで嘘話?」
「さぁ…私には分かりかねます」
真実は俺とお前と参謀と、親父さんとお袋さんが知ってればいいことじゃ。
空気の読める紳士に、俺は笑った。
さて、俺が知るこの後のシナリオは「お袋さんに心配をかけた罰として親父さんから謎の腹痛のプレゼント」なんじゃが…
ソファの上でしょぼくれとる赤也はどうなるかのう?
なぁ、確率はどのくらいじゃ?参謀。
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