別に自分の意思でここにいるわけじゃない。
…と、言い訳しておく。
隣で歯噛みしている男の横顔をちらりと盗み見て、俺は溜息をついた。
「小春ぅ…何でなんや…小春………!あんな近付きよってからに!」
「……………」
俺とユウジは今、水族館にいる。
目的は今、クラゲの水槽の目の前で寄り添って綺麗にライトアップされたエチゼンクラゲを眺めている二人。
俺の恋人であるはずの貞治と、ユウジの兄である小春だ。
事の起こりは今日の朝、ユウジから突如かかってきた電話から始まる。
『おい、お前ホンマ手塚の正妻なんか』
「…正妻というのは正しくはないが、朝一で電話をかけてきて開口一番それというのは何だ」
『今日小春、やたらめかしこんでると思たら手塚とデートや言うて出てったんやぞ!』
「………何?」
『A組の生物の宿題や!正妻の癖にそんなことも知らんのか!』
「俺は他のクラスの宿題までは把握していない」
『あーもう!とにかくこれから駅来いや!』
「俺は忙しいんだが…」
『お前手塚が浮気してもええんか!ええから来い!分かったな!』
こんな一方的な電話の後、結局駅に行った俺を迎えたユウジは実に不満げな表情だった。
「何でお前はいつもいつも手塚に好きにさせとるんや!自分の旦那くらい責任持って手綱握っとけや!」
イライラと俺に八つ当たりしながらの説明を聞くと、どうやら今日二人は生物の宿題である“海洋生物の生態”を調べるために水族館へ行くらしい。
班ごとの宿題だったようだが、班の他のメンバーは頭のいい二人に任せたようだ。
もちろん俺は貞治が小春と二人で出かけるなんて話は聞いていない。
別に貞治の交遊関係に口を出すつもりも、束縛するつもりもないが、よりによって相手は小春だ。
そんな話を聞いていい気がするわけもない。
加えてユウジは小春に強く物申す権利も持ち合わせていない。
「…何でなんや…俺はこんなに小春を愛してるんに…俺の思いはまったく伝わってないんか…」
人の多い休日の駅前で膝をついて半泣きになる男というのも体裁が悪い。
俺はユウジの「二人を尾行して小春のピンチを俺が救うんや!」という熱意に便乗する形で二人で行動を共にすることにした。
まぁ…貞治が小春をどうこうする心配はないだろうが、小春が何をするか分からないというのにのこのこと二人で出かけるなんて貞治も浅慮にも程がある。
何かあったら思いっきり開眼して貞治の慌てる顔を楽しんでやろう。
そういうわけで、冒頭へ戻る。
「エチゼンクラゲ(越前水母、越前海月、Nemopilema nomurai)は刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属に属する動物である。大型の食用クラゲの1種で、傘の直径が2メートル重さ150キログラムになるものもある。体色は灰色・褐色・薄桃色などの変異があり、日本では人が刺されたという報告はほとんどされていないが、最近の研究では毒性が高めであることがわかった。また、体の90%以上が水分である。東シナ海、黄海、渤海から日本海にかけて分布する。ときに大量発生すると漁網を破るなどの被害を与えることがある。ビゼンクラゲなどとともに食用にされる(Wikipedia参照)」
「………そんなに詳しいならわざわざ水族館へ来る必要はなかったんじゃないか…」
腕に絡みつく小春を、半ば諦めた様子でそのままにしたまま貞治は溜息をついている。
俺とユウジはそんな二人の声が聞こえる位置にある水槽の影に隠れて様子を窺う。
水族館が薄暗いのも幸いして、二人はまだ俺達の存在に気付いてはいないようだ。
「嫌やわぁ、貞クン。こんなん調べんでも分かることやけど、二人で水族館☆ってとこに意味があるんやないの」
「俺はどうせなら蓮二と来たかったよ…」
「もうッ!そう言わんとせっかく来たんやから今日はアタシと楽しめばええやろ?」
「ああッ!あんなに近付いて…!小春のアホ…!手塚に食われたらどないすんや!」
「貞治はこんな場所で理性を失うほど愚かじゃない」
とは言いつつ、確かに距離は近い。
薄暗い場所というのも奴らに奇妙な安心感を齎しているのか、いつもよりも会話もスムーズなように感じる。
「お前よう平気な顔してんな!自分の旦那やろ!嫉妬したりせぇへんのか?」
「旦那じゃない。あと、お前も近い。少し離れろ」
気が付けば、二人で狭い場所に身を寄せ合って会話に聞き耳を立てていたせいで、俺達も随分密着していた。
ユウジの方に溜息交じりに顔を向けると、その顔が思った以上に至近距離にある。
俺は思わずビックリして目を開けてユウジの顔を見つめてしまった。
「…っ!何や、目開けんなや…」
「す、すまない…近くにいたから、驚いて…」
…ビックリした。
今まで家族や貞治以外の顔をこんなに間近に見たことがなかったから。
慌てて顔を背けると、ユウジも咳払いをして少し俺から体を離した。
気持ちを落ち着けるために深呼吸する。
…何をドキドキしているんだ、俺は…
「…あ、移動したで。追うぞ!」
貞治と小春が動いたのか、ユウジは機敏に動いた。
俯いていた俺は反応が遅れてしまう。
そんな俺の手をユウジは強引に引っ張った。
「何や、昼飯食うみたいやな」
「そのようだな」
水族館の端にある、水槽を眺めながら食事が出来るレストランに入る二人を追って俺達もレストランに入る。
まだ少し時間が早かったからか、二人と程近い席に陣取ることが出来た。
俺達と貞治達のテーブルの間には大きな観葉植物が配置されているから、ここでバレる心配はないだろう。
「ね、貞クン♪何食べるぅ?」
「水族館で海鮮丼、か…シュールだな…」
背後の貞治達の会話に耳をすましていると、正面に座ったユウジが俺の袖を引いた。
「何も頼まんのも不自然やろ。俺らも何か食おうや」
「ああ、そうだな…」
注文を済ませ、改めて二人の会話に耳をすますが、特に怪しい会話はない。
そりゃそうだ、二人に怪しい関係がないことなんて分かりきっているのだから。
なかなかに貞治達の会話は盛り上がっているようだが、こちらのテーブルは無言だ。
目的が俺達の親交を深めるためではないのだから、当然といえば当然だが。
ユウジとの会話もなく、目的の二人の会話にも興味がなく、俺はボンヤリと水槽を眺めた。
自然と頭に浮かんだのは、さっき初めて見た至近距離でのユウジの顔。
一重でキツイ目だと思っていたが、近くで見るとなかなか綺麗な目だった。
鼻の形がとてもいい。
それなりに見栄えのする顔なのに、何故男…しかも兄なんか追いかけているのだろう。
兄の方は特別綺麗な顔だというわけでもないのに。
「おい」
その気になればこんな報われない思いをしながら兄を追う必要なんてないレベルのルックスのはずだ。
一体ユウジは小春のどこに惹かれているのか…
「おい、蓮二」
「っ!?」
ユウジの声で我に返る。
一体何を考えているんだ、俺は。
貞治の浮気現場になるかもしれないという局面にありながら、ユウジのことをとりとめもなく考えるなんて。
正面で怪訝な顔をするユウジの顔が見れなくて、俺は口元を押さえた。
「…何だ」
ユウジはちょっと視線を泳がせて、水槽を見つめながら小さく呟いた。
「………さっき思たんやけど…、お前って、結構綺麗な目ぇしてるんやな…」
「!?」
驚いて思わず開眼してしまう。
「ああほら、目の色素薄いな?髪真っ黒やのにな…変わってんな」
「…そ、そうだな…そのせいか太陽の光に弱いんだ」
「ああ、だから目ぇ細めてんのか」
今まで俺の開眼を怖いと言う人間は多々いたが、綺麗だなんて言われたのは父親以来初めてだ。
「でもここ、薄暗いんやから、目ぇ開けとっても平気やろ」
「そうだが…もうこれが癖だから…」
「ふーん…ええけど、もったいないな」
そんなことを言われても困る。
どういうリアクションを取るのが正しいのか、まったく分からない。
何だ、この心臓の音は。
体中の血が顔に集まっていくような気がして、俺は再び目を伏せて水槽を眺めた。
背後の二人の会話なんて、もう頭に入らない。
「…このレストラン、綺麗やな」
「そうだな…」
「お前も、手塚と来たかったやろ」
「……………」
確かに、ロマンチストな恋人のことだ。
こういう綺麗なレストランで一緒に食事なんてしたら浮かれきって歯の浮くような台詞を並べ立てるところだろう。
その光景を思い浮かべると少し笑みが浮かんだ。
だが…
「…そうだな…だが、これも悪くない」
俺の言葉に、ユウジが小さく「何言うとんねん」と呟いた。
少し頬が赤く見えるのは、ロマンチックに演出された照明のせいだろう。
食事を終えて会計を済ませる二人と少し間を置いて、俺達もレストランを出た。
「…アカン、どこ行った?」
「こっちのラッコゾーンに行った確率49%…」
「微妙すぎるわ!小春はこっちのペンギンゾーンの方が好きそうなんやけど…」
二人で館内案内のパンフレットを開いて覗き込み、ああでもないこうでもないと言い合う。
また体が必然的に近付いたが、気にしている場合ではない。
貞治達を見失ってはわざわざ来た意味がない。
これじゃまるで本当に、俺達の方がデートみたいじゃないか。
一瞬浮かんだその考えはすぐに打ち消した。
「イルカショーの確率60%…」
「だから微妙やって!」
熱帯魚の水槽の並ぶ館内を歩きつつキョロキョロと姿が見えない二人を探す。
「………蓮二?」
背後からかかった声に、体が固まった。
隣のユウジも固まっている。
二人で同時にゆっくり振り返った。
「貞治…」
「小春…」
俺達の探した二人がいつの間にか背後にいた。
それもガッチリと腕を組んで。
それを見た途端、俺の中で怒りのボルテージが上がるのを感じる。
何故。
何故そんな、当然のように腕を組ませているんだ。
小春が言っても聞かない奴なのは分かっている。
それでも俺と外にいる時は絶対そんなことしないのに。
何故拒否しないんだ。何故小春の好きにさせているんだ。
そう思った瞬間、俺は咄嗟にユウジの腕に自分の腕を絡ませていた。
「蓮二ッ!?」
予想通り、そんな俺を見た途端貞治は慌てたような声を上げる。
何だ、その声は。
大人しく小春を腕にぶら下げているお前に俺を非難する資格などない。
俺は更に強くユウジの腕に自分の腕を絡ませた。
ユウジはユウジで未だに見つかってしまったショックから立ち直れないのか、動かない。
「何でここに蓮二が…というか、何故ユウジと、そんな…」
今にも泣き出しそうな貞治に少し溜飲が下がる。
小春は平然と「何や、二人そういう関係に進展したん?」などと楽しげだ。
「…俺達も生物の宿題だ。なっ、ユウジ!」
「えっ…!?あ、ああ。そや!宿題宿題!」
やっとフリーズが解けたユウジが俺の咄嗟の嘘に便乗して頷く。
「だ、だからって…そんなに密着して…」
「お前に言われる資格はないな」
「蓮二…!俺と小春はそんなんじゃないって言ってるだろ!?」
「うるさい!俺とユウジだってそんな関係じゃない。疑うというのは自分が疚しいところがあるからじゃないのか!?」
もちろんそんなことじゃないのは分かってはいるが、とにかく貞治に一矢報いたい一心で適当に言葉を連ねる。
効果は絶大らしく、貞治は今にも崩れ落ちそうになりながらも必死に俺を説得し始めた。
「何やこれ、Wデートの続きみたいやねぇ♪」
「「「違う!!!!!」」」
小春だけが呑気に笑い声を上げる。
俺達三人の声が揃った。
「………あー…でも…」
しかしユウジが頬をかきながら視線を逸らした。
「確かに、そうかも…俺今日、結構楽しかったし………」
ユウジの照れたような声に、今度こそ貞治は床に崩れ落ちた。
「ユウジ………」
「蓮二、今日…何や楽しかったわ…」
「…俺の方こそ、思っていたより楽しかった」
「ホンマ?よかったわ」
ユウジは珍しく満面の笑みを俺に向けた。
崩れ落ちた貞治そっちのけで話を続ける俺達に、貞治は恐らく俯いたその下で眼鏡を涙で濡らしていることだろう。
「手塚、安心せぇ。俺が好きなんは小春だけや!」
ユウジの声にやっと貞治が顔を上げる。
「せやけど…今日はおおきに、な」
ユウジが少し背伸びをした。
と、思ったら俺の頬に触れる乾いてひんやりした感触。
冷たさに驚いているうちにユウジはさっと俺から離れた。
「!!!!!!!!!!」
貞治が声も出さずに悲鳴を上げる姿を見て、俺は初めてユウジにキスされたのだと気付いた。
嫌悪はない、ただの驚き。
そんな自分に更に驚く。
床に倒れた貞治を飛び越えて、ユウジは小春に抱きついた。
「小春ぅ〜!宿題終わったんやろ?せやったら早よ帰ろうや」
「せやね!今日の蓮二クンとユウくんのデートの話も聞きたいし、帰ろか!」
二人は肩を並べて、俺達に何の挨拶もなくさっさと水族館の出口へと向かった…
「……………」
二人が出口から消えていく姿を見送って、俺は足元に転がる貞治の屍に目を落とした。
「……………」
一矢どころか、百矢は報いれたような気がして、俺は微笑んだ。
「貞治、帰るぞ」
俺の声に貞治がピクリと動く。
「今日はお前と会うとは家族は知らないからな。…遅くなっても構わないんだが…」
暗にこの後は二人きりになろう、と匂わせてみれば、貞治はあっさり復活した。
この単純な男が、俺は心底好きだな、と実感しながら俺達も出口へ向かう。
「蓮二…」
「俺もユウジよりお前の方が好きだ」
「蓮二…!」
嬉しそうに目を潤ませる貞治に笑顔を向ける。
だが、ユウジもお前に及ばないなりに好きかもしれない。
その言葉は一生、貞治は知らなくていい。
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