―ある日曜日―
特に出かける用事もない日曜日は、俺は大抵部屋で本を読んでいる。
今日読んでいるのは何度も読んだ夏目漱石のお気に入りの一冊だ。
何年も愛読してるにも関わらず陽に焼けて紙が茶色く変色していたりはしない。
そういう古書らしくなった本も嫌いではないが、俺は自分の本は綺麗に保存したい。
陽の当たらない位置に置かれた本棚の中の本は全て真っ白に美しいままだ。
「おれかよ!!」
庭にいるジャッカルの吠える声が聞こえた。
ブン太がまた餌をやるのを忘れているんだろう。
この一風変わった鳴き声で鳴く犬は我が家の一員だ。
母の茶飲み友達である知念家の奥さんから貰いうけたらしい。
データによると知念家のご主人は犬が苦手なようだ。
子供達が拾ってきた犬をどうしようか母に相談したというのを聞いた四男のブン太と五男の赤也が、
父と母に何日も頼み込んで我が家にきたという経緯がある。
経緯はどうあれ今はすっかり我が家に馴染んで、いなくてはならない癒しの存在だ。
「おれかよ!!」
またジャッカルが鳴いた。
ブン太に餌をやるように言わないと―――
ジャッカルを飼うことになった時、世話はブン太と赤也がやるという約束をしていた。
赤也は俺の予想通り一週間で散歩のために早起きをすることを耐えかねて世話をしなくなった。
ブン太は面倒そうにしながらも根は優しい奴なのできちんと世話をしてる。
でも頻繁にこうして餌の時間を忘れてはジャッカルに吠えられて、母に怒られることになる。
あと一声吠えたら母がブン太を大声で呼び出す確率100%…
せっかく心地よい日曜日にあのがなり声を聞かされるのは堪らない。
俺はしぶしぶ読みかけの本にしおりを挟んで部屋を出た。
俺の部屋から一番離れた場所にあるブン太と赤也の部屋の扉をノックする。
ちなみに部屋が離れてるのは近いとうるさいからだ。
「ブン太、いるのか?」
扉を開ければ赤也しかいなかった。
「蓮二兄さん、どうしたんッスか?珍しいッスね〜俺らの部屋に来るなんて!」
末っ子である赤也は今年小学校に上がったばかりだ。
末っ子特有の甘え上手で、長男の俺には特に懐いている。
いつも母親に怒られてばかりだから、そのフォローに回っている俺に懐くのは当然と言えよう。
赤也は嬉しそうに俺の腰に抱きついた。
「蓮二兄さん、遊んでよ〜!」
「ああ。後でな。今はブン太を探している…赤也、知らないか?」
「ブン兄?俺が起きた時はもういなかったッスよ」
「…お前またこんな時間まで寝ていたのか…」
もう昼近くになろうとしている。
道理で朝食の席にいなかったわけだ。
とにかくこの部屋にブン太はいないらしい。
ということは…キッチンでまた何か食べ物を漁っている確率50%…否、この時間なら雅治達の部屋だろうか。
「赤也、また後でな。昼食には間に合うように、二度寝はするなよ」
「はーい…蓮二兄さん、昼飯食べたら一緒に遊びましょうね!」
「ああ、分かった」
まだ腰に絡み付いている腕を外して、赤也の柔らかい天然パーマの髪の毛を一撫でして部屋を後にした。
「雅治、比呂士、いるか?」
赤也達の隣の部屋の扉をノックして開ける。
「ああ、兄さん、どうしたんですか?」
三男の比呂士がベッドに凭れて雑誌を捲っていた。
……………
「…ああ、いや、ブン太はいないようだな」
「ブン太?ええ、今日はこの部屋には来てませんよ」
「そうか…ところで何を読んでいる?」
「兄さんも見ますか?」
手渡された雑誌の表紙にはやたらと面積の少ない水着を着た女が挑発的なポーズを取って写りこんでいる。
所謂成人向け雑誌…エロ本だ。中を捲れば裸の女のオンパレードだった。
「雅治君の本棚から見つけたんです」
「人の本棚を漁るなど紳士としてあるまじき行為だな」
「見てください、私なんかはこういう女性が好きですね。兄さんはどんな女性が好みですか?」
人の話を聞かずに俺の手の中の雑誌を捲り好みだとかいう女を指差して、比呂士は話を続けた。
「生憎こういった雑誌に出るような女は興味がないな。ブン太がいないならもう失礼しよう」
「そうですか…読みたくなったらいつでも来てください」
「ああ…そういった本は母さんには見つからないようにしろよ…雅治」
「分かりました………あ、」
…予想通りだ。
「…チェッ、もうバレてもーた。いつから気付いとった?参謀」
比呂士の眼鏡と茶色い髪のカツラがベッドの上に放られる。
そのカツラの下から現れた透けるような細い銀色の髪を手櫛で整えながら雅治は笑った。
「部屋に入った瞬間だ」
「…ウソ?」
「本当だ。比呂士は本を読む時はきちんと机の前に座る」
「ピヨ…しくったぜよ」
雅治と比呂士は今年高校に入ったばかりの双子の弟だ。
「少しは兄らしくしろ。仮にも次男だろう」
「そんなん俺には関係ないのぅ。遊び心を忘れたら人間終わりじゃ」
双子だというのに性格は似ても似つかない。
いたずら好きでこうして変装しては誰かを驚かす雅治と、絵に描いたように紳士な比呂士。
まぁブン太や赤也なら騙せるだろうが、俺を騙そうなんて100年早い。
部屋の扉が開いたと思ったら今度こそ本物の比呂士が部屋に入ってきた。
「よう、相棒。参謀の好きな女のタイプ分からなかったぜよ」
「そうですか…私のフリをすればいくら兄さんでも本性出すかと思ったんですけどね」
「部屋に入った途端にバレとったらしい」
「全く…雅治君の中途半端な変装のせいですよ。やるならもっと本格的にやっていただきたい」
………
どうやら比呂士も納得した上でのいたずらだったらしい。
「…比呂士、ひとつ聞くが、こういう女がお前のタイプなのか?」
雅治が開いたままの雑誌の中の全裸の女を指差す。
「いえ、私はどちらかというとこっちのセーラー服の女性の方がいいですね…何ですかこのはしたない女性は。雅治君の趣味ですか?」
「分かっとらんのぅ、全裸にニーソックスとガーターベルトだけなんてこれぞ男のロマンぜよ!」
…前言撤回、この双子の本質は実によく似ている。
「あっ、皆してこんな所に居たの?」
振り返ると我が家の主である父、幸村精市が立っていた。
「お父さん。今日はお休みだったんですか」
比呂士が聞けば父は困ったように笑った。
息子の俺が言うのも何だが儚い顔をした美丈夫だ。
「いや…今日は夕方から夜勤。もうやんなっちゃうよ、夜勤ばっかで」
医者をやっている父は滅多にこの家にはいない。
自分も体が丈夫なほうではないんだから無理はしないでもらいたいものだ。
この人に何かあったら我が家の家計に関わる。
「蓮二、子供があんまりお金の心配するものじゃないよ。それより純粋の父さんのこと心配して欲しいな」
父は見た目の儚さとは相反して精神的には異常にタフだ。
読心術が使えるらしいが、俺のデータではまだ解明されていない。
恐ろしい人間であることは確かだ。
…そういえば俺の恋人である手塚貞治という男の祖母も似たような人種であるということだった。
(それより『恋人』というフレーズを使うのは恥ずかしい)
明日学校で貞治に会ったらこのことを一緒に解き明かしてみるのもいいかもしれない。
「ああ、貞治君は元気?せっかく三年生になったのにクラス離れちゃったんだって?」
「クラスは離れたが階は同じだからな…よく会う。元気ではあるようだ」
「そっか、また遊びにおいでって言っておいてね。じゃ、俺弦一郎のところに行くから!」
言いたいことだけ言うと父は母に会いにさっさと階下へ降りに行った。
「相変わらず仲のいい夫婦ですね」
「まぁのぅ…俺には何でお袋みたいなんがええんかさっぱり分からん」
「…雅治、父さんがいる家の中で滅多なことは言うものじゃない」
家の中くらいの範囲であれば彼の読心術は使えるはずだ。
素直な気持ちで雅治の無事を祈った。
「だってあんなイカツイ老け顔ぜよ?俺なら絶対無理じゃ、勃たん」
「まったく…そんな下品な物言いするものじゃありませんよ、雅治君」
「アレに5人も孕ませるなんて親父は勇者か?………うっ…」
声を潜めつつも楽しげに話していた雅治が突然腹を抱えて蹲った。
だから滅多なことは言うなと言ったのに。
まぁ確かに母はイカツイし年より老けてはいるが。
父が精神的に強いというならば母は肉体的に強い。
しっかりしているし、母としては厳しすぎるきらいもあるが父が優男な分ちょうどいいと言えよう。
単純で鈍感なところは短所でもあるが長所にもなりうると俺は思う。
何かあれば「たるんどる!」と怒鳴られる赤也やブン太は母を恐れている。
しかし父はそんな母にぞっこんなのだ。
学生時代からの付き合いで、その愛情は俺達が生まれてからも変わることがないのだからよっぽどだろう。
「あれぇ〜?雅治兄どうしたの?」
部屋に腹を抱えたまま青い顔をしてる雅治と、それを気遣う比呂士。
開かれたままの扉の向こうからブン太が顔を覗かせた。
…そうだ、俺はブン太を探していたのだった。
「ブン太、ジャッカルに餌はあげたのか?」
「え?まだやってなかったっけ?」
くちゃくちゃとガムを噛みながらブン太はけろりとしている。
「先程ジャッカルが二回鳴いた」
「え…嘘だろぃ?」
「嘘ではない…三度目の声が聞こえるのはそろそろかな」
けろりとしていた顔が徐々に強張る。
中学2年にしては幼い顔立ちが、恐怖に歪むと更に子供っぽく見える。
ジャッカルが三度鳴けば母の雷が落ちることを知っているブン太の顔色も、雅治に負けず青くなってきた。
慌てたブン太がジャッカルの元へ駆け出そうと踵を返した瞬間―――
「おれかよ!!!」
俺は今日の午後は漱石の続きを読むことを諦めた。
「ブン太ぁぁぁぁぁあああああぁぁあ!!!!!」
階下から母の声が響いた。
…これはきっと我が家から半径1kmくらいには響いたであろう。
咄嗟に耳を塞いでいた俺は事なきを得た。
昼食は遅れるだろうからそれまで赤也と遊んでやろう。
未だ顔を青くした雅治と背中を摩る比呂士に軽く挨拶して俺は赤也の部屋に向かった。
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