コンコン、とノックの音の後、静かに開く扉の音。

俺様の朝はこうして始まる―――



いつものように樺地が部屋に入って来る音がして、俺はゆっくり目を開けた。
まだ眠気の残る体はカーテンの開いた朝の光に耐え切れず、目を完全に開けることが出来ない。
俺は目元を抑えたまま、ベッドに起き上がった。
俺にふさわしいキングサイズのベッドの横に立っているであろう樺地に向かって手を伸ばす。
いつものように手渡されたローブを受け取ってやっと目を開けた。

―――樺地に朝の挨拶をするために横を見た俺は、そのまま固まった。



そこに立っていたのは樺地ではなかった。



「おはようございます、旦那様」
「……………」

そこにいたのは樺地の次によく働いてくれる、見知ったメイド。

「………お前、何故ここにいる?樺地はどうした」

内心の動揺を隠し平静を装って聞けば、メイドは言葉を詰まらせた。
いつもハキハキとした娘なだけにその態度に訝しく思う。



「…それ、が…私共が来た時にはもう、どこにもいらっしゃらなくて…」



―――――………



ばん、と大きな音を立てて食堂の扉を開く。
珍しく息子達は既に席についていた。

「…おはようさん、景ちゃん…どうかしたん?」
「父さんがパジャマのまま食堂に来るなんて珍しいですね」

変態メガネ(これがこの俺様の父親であるなんて認めるのも嫌だ)と長太郎が聞いてくるが、それどころじゃない。

「お前ら、樺地はどこだ」

「「「「「「ハァ?」」」」」」



「………樺地が居なくなった」



俺の言葉に、全員が一瞬言葉を失ったようだ。
当然だ。俺様だってまだ信じられねぇ…

一番最初に溜め息と共に言葉を発したのは若だった。

「…まぁそのうちこうなるんじゃないかと思いましたけどね…」
「どういうことだ、若」
「その自覚の無さが母さんを更に追い詰めていたんでしょうね」

若の言葉を聞いた息子達は全員絶望的な顔をして頷いた。

「母さんはよく出来た人だったな、長太郎…」
「亮さん!俺父さんと母さんのどっちについて行ったらいいんでしょうか」
「経済面を考えるなら父さんだC。でも母さんについて行った方がEよね〜」
「亮さん!俺は亮さんについて行きますからね!」
「俺…急にそんなこと言われても決められねぇよ…」
「樺地若、か…そう悪くもないかな…」
「おいおい、おじいちゃんはお前達に会えなくなるのは嫌やでぇ!」
「クソクソ!景吾!お前何してんだよ!樺地みたいに出来た嫁二人といないぞ!」

家族は口々に勝手なことを言いやがる。
…おい、俺様の味方は誰もいないっていうのか?
いや、それ以前に…

「樺地が俺様に愛想を尽かすなんてことがあるわけねーだろうが!!!!!」

新生活に希望や不安を抱く家族達の言葉を断ち切るように大声で怒鳴る。

「「「「「「……………」」」」」」

俺を可哀想なものを見るような目で見るんじゃねぇ!

「…母さんがいないってことは朝食はなしってことですね」

そうなる。
(昼食は個人でバラバラ、夕食はシェフが作る。朝食は樺地が作っていたのだ)
今度も一番最初に席を立ったのは若だった。

「俺、今日は学校休みます。荷造りしないと」
「あ、そっか!亮さん!俺亮さんの荷造りも手伝います」
「悪ぃな、長太郎…転校の手続きもしないとな」
「新居は狭くなるだろうC、荷物少なくしといた方がいいよね〜?」
「あークソクソ!俺も一緒に出て行こうかなぁ?」

それぞれが席を立って食堂を出て行く。

俺は一人食堂に取り残され、結局一言も発することが出来なかった。

ぽん、と肩に手が置かれる。
振り返るとこれ以上ないほど優しげな笑顔の親父だった。

「景ちゃん…俺だけは景ちゃんの味方やで…」
「…親父…」

俺は思い切り親父の横っ面を殴り倒して食堂を出た。



クソッ…
今まで樺地が俺に黙っていなくなるなんてこと一度もなかったのに…

どうしたらいいのか分からなくて、とりあえず着替えて書斎に篭もった。

「あの、社長…お仕事は…」
「休む!」
「…でも…今日は大事な取引があるので…」
「樺地が帰って来ないと仕事しないぞ!」

いつものように迎えに来た会社の重役が俺を会社に連れて行こうと引きずる。

「いやだ!今日はもう仕事行かない!!!!!」
「社長!お願いですからワガママ言わないでください!」

押し問答を続けていると書斎の扉が開いた。

「あのよー、父さんなら金に物言わせて世界中探すくらいできるだろ?」

…亮だった。

「何ていうかさ…別れるならその前にちゃんと一度会って話聞いときたいからさ…」
「いや別れるわけねぇだろ、誰に物言ってんだ」
「…まぁ、母さんが別れたいと思うのも仕方ないことだと思うけど」

俺の話を全く聞かない。
すっかり俺達が別れるっていう前提で話をしてやがる。



でも、亮のアドバイスは確かに盲点だった。
そうだ、俺様程になれば相手が世界中どこにいたって見つけることが出来る。

「フン…まぁきっと樺地にも事情があったんだろうけどな…俺様に黙っていなくなるなんていただけねぇ」

俺は机の上の電話の受話器を持ち上げて電話をかけ…



…ようとして、やめた。

「…?探さねぇの?」
「探さねぇ」
「何で?」
「…この俺様の妻が消えたなんて情報が漏れたら俺様の沽券に関わる」
「……………」

そもそも樺地が俺から逃げるわけがねぇ。
きっと何か理由がある、ということを俺は疑わない。
下手に騒ぎ立てて大事にしたくはない。

「じゃあ母さんの行きそうな場所探せよ」
「……………」

樺地の行きそうなところなんてとっくに考え尽くした。
しかし俺様には到底思い浮かばねぇ。
アイツはああ見えて何気に行動範囲が広いからな…






亮が黙って部屋を出て行った直後、色々考え込んでいたら今度はジローが部屋に入ってきた。

「ねーねー、転校手続きの書類に判子押してー」
「転校なんてする必要ない!ていうか別れるなんて俺まだ言ってねぇだろうが!」
「A。でも実際母さん居なくなってるC〜」
「すぐ帰って来るに決まってる!樺地が俺様から離れるわけねーんだ!」

ジローはずかずかと俺の机の近くまで歩いてきて、小首を傾げた。

「…ねぇ、何で父さん今日服がヨレヨレなの?」
「ああ?」

今日の服はメイドが用意していたスーツだ。
きちんと確認したがクリーニングにも出してあったしシャツも糊がきいてたぞ?

「でもネクタイの結び目固結びだC、ボタン掛け違えてるC、ズボンにシャツ入ってないC…」

ちらり、と己の体に視線を走らせてみると、確かにその通りだ。

「それに髪型も起きた時のまんまだC…」
「チッ…うるせぇな…」

髪型もジローの言う通り、寝癖のついたままだ。

「メイドさんにやってもらえばEのに」
「うるせぇっつってんだろうが。俺様の服を整えるのも髪形をセットするのも樺地の仕事だ!」
「………サイテーな亭主関白だC…」
「母さんがいないと本当に何も出来ませんね。3日もあれば死にますか?」

ジローの後ろからぴょこんと顔を出したのは若。
いつの間に部屋に入ってきたのだろうか…

「ノックしたんですが返事がなかったので勝手に入りました」
「…お前は何だ。判子なら押さねーぞ」

次から次へと何なんだ。
くたびれて机に頬杖をつけば、若は俺に1枚のチラシを渡した。
物件のチラシだった。

「慰謝料代わりと言っては何ですがこの家を買ってください」

ジローは俺の手元を覗き込んで「小さくない?」なんて言っている。

「子供達4人と母さんが一緒に暮らすならこのくらいあれば充分でしょう」
「ん〜…まぁ新しい滑り出しとしては悪くない場所かもね」
「ちゃんとこの町からは遠いところにしておきました。近所に学校もあります」
「さすがわかC!抜かりないC!」

俺様を労わるどころかこれからの新生活に希望を見出すこいつら…血も涙もねぇ…



「………お前ら出て行けっ!家なんて買わねーからな!!!!!」



ジローと若は口々に文句を言って部屋を出て行った。
書斎に再び静寂が訪れる。

…樺地…本当に、俺様に愛想を尽かしたのか…?

俺は本当に、子供達が言うほど駄目な夫だったんだろうか。

そりゃあ俺は一人で着替えも髪のセットもしなかったし、
家の仕事は樺地やメイド達に任せっきりだったし、
仕事の手伝いさえ樺地はやってくれていた。
「樺地」と呼んで指を鳴らせばアイツは俺の望むことを何でもしてくれた。
それとも俺が後先考えず年子で4人も子供を作ったからだろうか…
俺は一度でも樺地の育児の手伝いをしたことがあっただろうか…

考え始めれば、俺の方こそ樺地を労わったことなんて無かったことに気がついた。



「…こんなんじゃ、樺地どころか子供達にも愛想尽かされて当然…か。フッ…」

柔らかい椅子の背もたれに背を預けて、天井を見上げる。

普段俺がこの椅子でこうして天井を仰いでいると、樺地はいつも温かい紅茶を用意してくれたっけ。



…別れたくない。
何が何でもだ。

でも、樺地の幸せを思うなら、俺様から離れた方がアイツは幸せになれるんだろうか―――



こんこん、とノックの音がして、長太郎が顔を出した。

「…どうした、長太郎」
「あの…亮さん見ませんでしたか?」
「亮ならさっき来たぜ。部屋に戻ったんじゃねーか?」
「ありがとうございます」

もうこうやって子供達と話すことも出来なくなるんだろうか…

「…あの、父さん!」
「何だ?」
「こんなこと言うべきか分からないけど…これからも頑張って!!」

「……………」

長太郎は俺に心底憐れんだ目を向けて部屋の扉を閉めた。
それが直球で俺の心の傷を抉ることを言っていた子供達の中で誰よりも俺を傷つけた。
長太郎の優しさは時として凶器だ。



その日一日中荷物を纏めていたらしい息子達は、その後俺の部屋には来なかった。
夕食時になって食堂に行けば、それぞれ席についている。

フ…これが最後の晩餐になるかもしれないってことか…
せめて樺地も一緒だったらと思うけど、もうそれは高望みなんだろう。

子供達は食事の最中もずっとこれからの生活について語り合っている。

「……………」

「で、結局どこに住むことになるんだ?」
「しばらくは母さんの実家にお世話になるしかないC」
「亮さん、出来るだけお手伝いするようにしましょうね!」
「じゃあまず明日母さんに連絡取りましょう」

……………?

「おい、待て」

「「「「は?」」」」

「お前達樺地と連絡取れるのか?」

「…何言ってるんですか。母さんだって携帯持ってるでしょう」

当然のように言い切った若に、俺は目を見開いた。

…盲点だった!!!!!
そうだ、確かに樺地には俺が携帯を持たせてある。

「それでお前達は連絡したのか!?」
「…まだだC。母さん一人で考える時間も必要だろうって長太郎が言うから…」

俺は大慌てでポケットの中に入れっぱなしだった携帯を取り出した。

「…父さんがかけたって出ないんじゃないですか?」

なんて若の声が聞こえるけど構っちゃいられない。
アドレス帳の一番初めに入っている樺地の番号を呼び出す。



ぴりりりりり、ぴりりりりり、ぴりりりりり、

3コール。

「…ウス…」

ぴ、と音を立てて電話に出たのは、間違いない。樺地だった。

「…樺地…!」
「ウス…どうか、しましたか…」
「どうしたじゃねーだろうが!何勝手にいなくなってんだ!分かるように説明しろ!」
「…?書置き…残しておいたはずです…」
「書置きだぁ!?どこにだ!」
「景吾さんの、ベッドのサイドテーブル、です…」

俺は携帯を片手に持ったまま寝室に走った。

寝室の扉を開けてサイドテーブルを見ると、そこに確かに一枚の紙が置かれている。
朝はあんなのあったっけか?…駄目だ、思い出せない。
樺地がいないってことで混乱しちまって、ちゃんと部屋を見渡したりなんてしなかった。

紙を手に取るとそこには

『実家の母が倒れたので実家に帰ります
容態が落ち着き次第連絡します』

と書かれている。

「…樺地、お義母さんが倒れたのか」
「ウス…でも、もう大丈夫です…明日には、戻ります…」
「そうか…」

俺は脱力してそのままベッド脇の床に座り込んだ。



「…早く帰って来い。お前がいないと駄目だ」
「………ウス…」



電話を切ると、手に汗を握っていた。
チッ、俺らしくもない…よほど動揺していたということか。
落ち着いた今、顔には自然に笑みが浮かんでいた。

ああ、早く食堂に戻ってアイツらに荷解きするように言わねーと。
樺地が俺様から離れるわけがないだろう、と言ってやらないと。



ネクタイを緩めるために指をかけたが、固く結ばれたそこは簡単には緩まなかった。



 

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