俺は宿題だけはやっていかない。



放課後の5年3組の教室。

もうクラスメイトのほとんどは帰ってしまって、少しの生徒達がグラウンドで遊んでるのが窓から見えた。
俺の机の上には今日もやってこなかった算数の宿題のプリント。
居残りでやらされてたんだけど、こんなもんは15分もかからずに終わった。
俺の前の席の奴の椅子に長い足を折り曲げて窮屈そうに座って、担任の知念先生がマル付けしてくれてるとこ。
赤ペンを操る知念先生の長い指先が「跡部若」と書かれた名前の横に点数を記入する。

「…跡部ぇー…今日も満点やっし…」
「当たり前でしょう」

知念先生は困ったように眉を下げながら笑った。
俺は知念先生のこの顔がすきだ。

背もでかくて普段はあんまり表情が変わらないから、怖いと思ってる生徒も多い。

だけど知念先生は本当に優しい大人の男だ。
知念先生の魅力が分からない奴らは馬鹿だと思う。
でもそんな奴らは馬鹿のままでいい。
知念先生のいいとこを知ってるのは俺だけで充分だ。

「何でやーは勉強できるし授業中だってちゃんとしてるのに宿題だけはやってこないんばー?」

低くて小さい声を静かな教室で聞くのが好きだ。

「家でまでわざわざ勉強なんてしたくないからです」



これは、嘘だ。



俺だって前までは宿題はきちんとやってきていた。
知念先生は宿題を忘れた生徒に居残りをさせるって知るまでは。

「わざわざこうやって居残りなんてするの嫌じゃないんば?」
「別に…家に帰ったってやることなんてないですし」
「…ふらー。そういう問題じゃないやっし」

あ。また困った顔して笑った。



「まぁとにかく、今日はもう帰っていいさぁ。もう忘れちゃ駄目やどー」
「……………」
「跡部ー?どうした?」

基本的に俺は勉強はそこそこ出来る。
問題児というわけでもない。
かと言って先生に懐いてる少数の生徒達みたいに
(ほんとに少数。しかも実の息子とか)
先生に構ってもらうために付きまとったりとかも、しない。

だからどうしても俺みたいな生徒は先生と接する時間が少ない。

それは知念先生が大好きな俺にとっては由々しき事態だ。



この「宿題を忘れる」っていう行動は考えあぐねた末の俺の結論だ。
せめて放課後くらい、先生と接する時間が増えるように。

元々宿題なんて出されると他の生徒と同じようにうんざりしてたのに、最近では宿題が出ないとがっかりする。

しかし居残りしたところで俺の学力ではあっという間に終わってしまう。
せっかく今日は俺以外誰も宿題を忘れなくて、先生と2人っきりだっていうのに…



「…跡部、まだ帰らんばぁ?」
「………先生、これからお忙しいですか」
「いや、別に…今日は職員会議もないし…」
「……………」

もう俺が帰ると思っていたんだろう。
教科書やプリントを立ち上がって纏めていた先生は、俺の様子を見てまたさっきのように小さくなって座った。

「何か相談か?」

気遣うように俺の顔を覗き込む。
こういう優しいところがすきなんだ。

俺の周りには全然いないタイプの大人だ。

俺の周りにいる大人といえば俺様でアホな父さん、父さん以外とほとんどまともに会話が成立しない母さん、
変態のおじいさん、騒がしいおばあさん、大人以外も兄さん達だってロクな奴がいない。
父さんの仕事の関係の大人なんて俺が父さんの息子ってだけで甘やかして愛想笑いやお世辞を言う奴ばっかりだ。

それに引き換え先生は、気遣いはあるけどお世辞なんて言わないし物静かで、本当に俺の理想とする大人。



「何かあったんだったら何でも言ったらいいさぁ…無理矢理は聞かないやしが」

黙り込んだ俺にちょっと笑って、先生は俺が口を開くのをただ待ってくれる。

どうしよう。
引き止めたものの何を話したらいいのか分からない。

どうしよう
どうしよう
どうしよう

膝の上で握り締めた拳を見つめる。
これじゃまるで傍から見たら先生に怒られてるみたいだ。



「………」
「………」

しばらく沈黙が続く。



…だめだ、いたたまれない。

諦めてやっぱりさよならって言って帰ろうかと思い始めた時、



「…そういえば来月家庭訪問があるさぁ」

知念先生の方が先に話し始めてくれた。

「え…そうなんですか?」
「そうさぁ。跡部の家行くの楽しみやっし」
「何でですか…」

出来たら来て欲しくないくらいだ。変な家族だと先生に思われるのは嫌だ。

「楽しい家だって6年の生徒に聞いたさ」
「何を聞いたか知りませんが誤解です」

真顔で即答した俺に知念先生は笑った。

「跡部の家ってあの博物館みたいなでーじでっかい家だろ?」
「はぁ…そうみたいですね」
「そうみたいですねって」
「俺はあの家しか知らないのででかいと言われてもよく分かりません」

実際周りのクラスメイト達の家に比べたら大きいのだろうとは思うけど。
俺にとってはずっとあの家が普通だったからピンとこない。
でも大きいからって便利なことといえばタクシーで跡部邸って言えば送ってもらえる程度のことだ。

「あの建物、跡部の家って知った時はしんけんびっくりしたさー」
「…そうなんですか?」
「わんの家が10個は入るさぁ」
「でも…家が小さくても、マトモな人に囲まれて生活したいです」
「あい?」

俺の家族を知らない先生は不思議そうに首を傾げた。
こういう仕種は初めて見るから、何だか俺は嬉しくなった。



「知念先生の家の子に生まれたかったです」



勇気を出してそう言えば、先生の目が少し大きく見開かれた。
それから、照れたように笑う。

「…にふぇーでーびる」

俺はそんな先生の顔を見るのが恥ずかしくて俯いた。



「あれ、父ちゃんまだいたんばー?」

がら、と教室の扉が開いたかと思ったら、廊下から顔を出したのは低学年らしき2人組。

「父ちゃん」ということはコレが噂に聞いてた今年入学した知念先生の双子の息子達か…

知念先生にも似てないが、双子同士も似ていない。
うちのクラスにいるもう一人の先生の息子、知念慧も先生には似てないが。
全く似てない親子なんだな(俺の家も皆似てないから、似てない家族って割と多いんだろう)

「裕次郎、凛、まだ帰ってなかったのか」

ゆうじろうとりん、と呼ばれた二人はずかずかと遠慮なしに教室に入ってきた。

「あかやがまたリョーマとケンカしはじめたから缶けりが途中で終わったんさー」
「つまんないから父ちゃん探そうってことになったんばーよ」
「………喧嘩してんだったら止めてやればいいさー…」
「あの2人ケンカしはじめたらわったーが止めるなんて無理やっし!」

帽子のチビが知念先生の腕に抱きつく。
そして金髪のチビは先生の膝の上に慣れた風に座った。

「わっさん、跡部。コレうちの息子さー。今年入学したんばぁよ」
「…はぁ…噂では聞いたことあります」
「ほら、お前らあいさつしろー」

知念先生がチビ達の背中をそれぞれポン、と叩くと、双子はやっと俺の方を見た。



「父ちゃんのクラスのひと?目つき悪いさぁ」
「あはははりん見ろ!頭きのこみたいやっし!うける!」

……………性格も先生には全然似てないようだ。

俺は引きつる頬を何とか抑えつけた。
仮にも相手は一年生だからな…怒るのは大人気ない…
俺のポリシーは「下克上」だ。
自分より下の人間に腹を立てるなんて時間の無駄だ。

「居残り?勉強できんばぁ?」
「違うさーゆうじろ、きっと何か悪いことしたんばぁよ」

うんやっぱりむかつくので何かこの双子に投げつけるものはないかと周りを見回す。

「こら、2人ともそんなこと言うもんじゃないさぁ。わっさん、跡部ー」

…知念先生が謝ってくれた。先生は悪くないのに。
俺は仕方なく頷いた。
でもチビ共を一睨みすることは忘れなかった。

「父ちゃん!あにひゃーにらんだ!まぶやー!」

「!!!!!」

先生の膝の上に乗ったままの凛とか言う方のチビがそう大声を上げて先生に抱きついた。

コイツ!ガキだからって調子乗りやがって!
俺だって先生に抱きついたり甘えたりしたいの我慢してるのにこの野郎!

年下とか言ってらんねぇ…

俺の下克上手帳に新たに知念家の双子の片割れの名が増えた。



凛はそんな俺の決意も知らずまだ知念先生の首に腕を回して甘えてる。



「やー、父ちゃんのことしちゅんなんか?」



苛々してる俺を見て裕次郎が言った突然の言葉に、俺の顔には一気に熱が集まる。

「…な、なななななななな、」

「やっぱりそうなんばぁ?」
「えーッ!だめやっし!父ちゃんはりんのやっし!!」
「だってりんのことうらやましそうに見てるさ」
「父ちゃんはぜってーやらんからな!きのこにはやらん!」

勝手に騒ぎ立てるガキ共に怒りが込み上げる。
今すぐこのガキ共を連れ出して人知れず葬り去っても神様は許してくれる気がした。
神様なんて信じてないけど。

ああもう最悪だ。先生の顔が見られない。



「父ちゃんはりんのことしちゅんやっし!な!?」

そりゃあそうだろう。
いくら教師だからって自分の子供の方が可愛いのは当たり前だ。

何も言えずに俯いてると頭にふわ、ってあったかい感触が触れた。



「わんは跡部しちゅんさー」



顔を上げたら、先生が俺を見て笑ってた。
頭のあったかい感触は先生の手みたいだった。
でっかくてあったかい先生の手。

恥ずかしいより何よりも先に嬉しくて、同じ空間にいるはずのチビ共のことなんて一瞬忘れた。

「やだーッ!父ちゃんりんはッ!?りんはッ!?」

大騒ぎする凛と裕次郎に「やったーのこともしちゅんよ」って先生が宥めてるのが聞こえたけど、どうでもいい。
自分の生徒だからって気を使って言ってくれたんだとしても、それでも嬉しかった。



…まだ、顔が熱い。



「おっ俺…!」

机の横にかけられたランドセルを持って立ち上がる。
先生がきょとんとした顔して俺を見た。
(俺が立ち上がってもまだ先生の方が視線が高い)



「俺、も…先生のこと、しちゅん、です!」



慣れない先生の故郷の言葉。
耳で聞いてただけで口に出したのは初めてだ。
口に出してみたら普通に好きって言うより恥ずかしくて、少し後悔した。



「…にふぇーでーびる」



今日二回目の『ありがとう』と笑顔を見て、俺はそのまま教室から走って出た。
双子が呆気に取られて言い返しもせずに俺を見てたのも気にならないくらい、高揚してた。



今日は大好きな知念先生と少しだけ、仲良くなれた気がする。
明日は、知念慧と話してみよう。
知念慧と仲良くなって、いつかもっと先生の近くにいきたい。



迎えの車は先に帰らせてあったから帰り道は一人だったけど、いつもなら面倒な道のりも今日はあっという間だった。

今日の宿題もやらずに明日も学校にいこう。
明日の居残りは今日よりも先生と話せればいい。






「おい知念慧。今度の日曜お前の家に遊びに行ってもいいか」
「………跡部、何の風の吹き回しばー?」
「うちのシェフに作らせた特製ドーナツを土産に持ってくぞ」
「…おかわりは?」
「駅向こうのホテルのレストランで売られてる一個2000円のプリン」
「いつでも来たらいいさぁ」

次の日、早速若は知念家へのお宅訪問権を手に入れるべく慧を買収していた。



「先生って家ではどんな感じなんだ?」

先生の普段の姿を聞きたくて、口を割らせるために若が用意したクッキーを食べながら慧は考える込むような顔をした。
無論クッキーを貪る手と口の動きは止まらない。

「別に普通さー。弟達と遊んだり、わんと風呂入ったり」

「… 今 な ん て 言 っ た」

「弟達と遊んだり、わんと風呂入ったり?」
「お前、先生と風呂に入ってるのか」
「あー、弟達と父ちゃんが一緒に入ると騒いで時間かかるから、弟達は母ちゃんと入るんさぁ。で、わんは父ちゃんと」

若にとって5年生にもなって親と風呂に入ること自体が理解に苦しむものだったが、
一般家庭(むしろちょっと下流?)な家では節約も兼ねてこういうこともあるということを若は知らない。

そして何より

(…風呂…?先生と一緒に、風呂…?)



……………



「…真の敵はお前か光秀―――――!!!!!」
「?わんの名前は慧さぁ」

己の与り知らぬところで、若の下克上手帳のランキング第一位に見事君臨したことを、慧は知らない。

「父ちゃんの裸って凄いんばぁよ!…ところでこのクッキーおかわりないの?」
「……………」

若は話の続きが聞きたいがために黙って新しいクッキーを差し出した。



 

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