渡り廊下にて 「え、今日も教室で自習?」 音楽の授業が自習になるのは今回で5回目だった。 最初こそ、サボりにくい音楽の時間に悠々教室で漫画を読めることが嬉しかったけど、さすがにここまで続くと不思議になる。 音楽教師は一体何をしてるんだろうか。 それどころか最近は、音楽室のある特別教室棟に近付いてさえいない。 「入り口に立ち入り禁止の札かかってたぜ」 「ふーん…改装工事でもしてるのかな」 クラスメイトの言葉にそう返してみるが、そういう様子は見られない。 業者が入ってるようでもないし。 俺はクラスメイトと共に首を傾げた。 「精市、いるか」 教室の扉が開いて蓮二が顔を出した。 蓮二が俺のクラスまで来るのは珍しい。 「どうしたの、蓮二」 「ああ、いや…今ちょっといいか」 珍しい異形の者の登場にクラス中の視線が集まっている。 どうせ自習で教師はいない。 俺は頷いて蓮二と一緒に教室を出た。 特別教室棟に向かう渡り廊下で、蓮二は立ち止まった。 「最近音楽室に近寄れないのを知っているか?」 「確かに音楽室には行ってないな。何か理由があるの?」 蓮二は言いにくそうに口ごもる。 俺は黙って蓮二の言葉の続きを待った。 「…柳生が暴走している」 な、何だって…!? 「…柳生って誰だっけ」 「……………」 …………… 「………音楽室の霊だ」 「………あー…あ…?何かいたような…」 ぼんやりと眼鏡のシルエットが頭に浮かぶ。 あまりにも会わないから忘れていた。 というか今も思い出せていない。どんな霊だっけ? 「夜の8時から9時までの一時間だけピアノを弾く。滅多に人前には現れない」 「ああ…何のためにいるのかよく分からない奴か」 何となく脳内の眼鏡のシルエットの焦点が合い始める。 よく考えたら数えるほどしか会ったことがない。 なので覚えてなくても仕方ない。 「暴走って?何すんの」 「ここ1ヶ月ピアノの音が鳴り止まない」 …ああ、だから音楽の授業が… ピアノが四六時中鳴ってたんじゃ授業にならないのも仕方ない。 「音楽教師はピアノを鳴り止ませようと音楽室に入り浸り、柳生のピアノを聴きすぎてノイローゼになった」 「そ、そんな効果あるんだ」 「霊だしな。霊障もあるさ。だからあいつはいつも一時間しか弾かなかったんだ」 そういえば「人に迷惑はかけたくない」とか言ってたっけ。 脳内の眼鏡のシルエットが少し人の良さそうな眼鏡に変化した。 ………ん? 「…その人のいい霊が何でまた暴走しだしたわけ?」 「それが分からない」 蓮二が音楽室の方に視線を向ける。 俺もつられて音楽室の窓を見た。 カーテンは開いてるが中は薄暗くて、明るい渡り廊下から室内の様子は分からない。 「ピアノの音、聴こえないけど」 「立海の音楽室の防音は完璧だ」 「…じゃあそもそも柳生の自重は意味がなかったんだね」 「…そう言ってやるな。あまりに可哀想だ」 いるよね、よかれと思ってやってるのに空回るやつ。 蓮二があまりに渋い顔をするので俺は黙った。 「そこでだ」 蓮二が気を取り直したように俺に向き直る。 ろくなことを頼まれない気がした俺は蓮二に背を向けた。 だが高い位置から襟を掴まれて逃げれなかった。 「…そこでだ、精市」 「俺に理由を聞き出せって言うなら嫌だからね」 「ご明察だ。行ってくれ」 「嫌だって言ったの聞こえた?」 何故眼鏡のシルエットくらいしか記憶にない奴のために俺が骨を折らなきゃいけないんだ。 こんなめんどくさいことはない。 俺はめんどくさいことは嫌いだ。 音楽の授業もめんどくさいからずっと自習で構わない。 蓮二を睨み付けたら、そのどこを見ているのか分からない細い目がふっと笑みの形を作った。 「柳生を手懐けるのは悪くないと思うぞ」 「…なんで」 「音楽準備室、入ったことあるか」 そんな部屋があることさえ今知った。 「あそこは柳生のテリトリーだ。教師さえあまり入らない。日当たりもいいしサボるには絶好の場所だろうな」 「…サボり場所なら他にもあるし」 「ノイローゼになった音楽教師も柳生を落ち着かせることが出来るなら出席しなくとも音楽の単位は約束すると、」 「何してんの、蓮二。早く音楽室行くよ」 変わり身早く特別教室棟に続く扉に手をかける俺に、蓮二は「お前はある意味扱いやすくて好きだぞ」と低い声で笑った。 「……………」 音楽室の前まで来ると、さすがに中からピアノの音が小さく聞こえた。 「…これ、何て曲?」 「シューベルトが1815年頃に作曲したリート『魔王』」 「……………」 聞いたもののよく分からなかったので、とりあえず俺は音楽室の扉を開けた。 音楽室の二重の扉を開けた途端、耳に入ったのはピアノの音。 クラシックは大して詳しくない俺だが、ピアノはこんなに大きい音が出るものだっただろうか。 風さえ起きそうな程の爆音、カーテンが閉まっているわけでもないのにどこか薄暗い室内。 一目でこの室内に「ただならぬこと」が起きているのが分かった。 音の中心には勿論ピアノ。 その辺りだけぼんやりと明るい。 脳内の眼鏡のシルエットが俺の目の前でピアノを弾く後ろ姿と一致した。 「…あんなにおどろおどろしかったっけ?」 「霊だしな」 「本領発揮するとああなるんだ…こわ」 柳生は俺達が音楽室に入ったことにも気付かないのかピアノを弾き続けている。 しばらくその後ろ姿を眺めて、俺はちらりと蓮二を見た。 「…で…俺どうすりゃいいの?」 「とりあえず声をかけたらどうだ」 「そりゃそうか。…おい、柳生」 この爆音の中俺の声など聞こえるわけもないだろう。 俺は仕方なくその肩に手を伸ばした。 こんな尋常じゃないオーラ発してるやつに触りたくなかったけど。 その瞬間、 「っ!」 肩に指先が触れようかとしたその瞬間だった。 電流のようにばちっと火花が散って、俺の手は弾かれた。 指先には痺れたような痛みが残る。 「……………」 「…大丈夫か、精市」 「……………」 気遣わしげな蓮二の声が聞こえるには聞こえたが、言葉が出ない。 ………ムカつく…! この俺が気を使ってわざわざ音楽室くんだりまで来てやったっていうのにこの仕打ち。 今日まで俺に存在さえ忘れられてた癖に、拒絶だと…!? 沸き上がる怒りにピアノの音もロクに聴こえなくなった。 「……………まったく…」 蓮二が小さく呟いて一歩下がった。 怒りに燃えた俺は視界の隅にそれをちらっと見ただけだけど。 「………柳生」 自分で思っていた以上に低い声が出た。 もう一度手を伸ばす。 今度は一瞬の抵抗の後、手は肩を掴むことが出来た。 そのまま強引に引き寄せると、柳生の右手はピアノから離れた。 余韻を残して、室内には沈黙が下りる。 「…柳生」 「……………」 静かになった室内に俺の声は思いの外響いた。 ゆっくり振り返った柳生が俺を視界に入れて、眉を寄せた。 「…お前、いい加減にしなよ」 「………っ…!」 ぶわっと効果音が聞こえてきそうなほど、柳生の表情が崩れた。 普段表情を隠している透けない眼鏡の奥から涙が流れてきている。 「ちょ…何で泣くんだよ!うざい!」 「ゆっ…ゆきむらくんんんんんん…!」 「抱き付くな!」 がっしりと腰に抱き付かれる。 引き剥がそうにも予想外の力だ。 っていうか幽霊の癖に生意気! 「蓮二!見てないで何とかしろよ!」 「いや…精市が慌ててるのが久しぶりだから珍しくて」 「いいから俺から柳生を離せ!」 「幸村くんんんんんん!幸村くんんんんんん!」 珍しいのは俺よりむしろ柳生のこの有り様だろう。 記憶にうっすら残る柳生は印象に残らないほどに穏やかで、こんなに取り乱した様子を見せるタイプじゃなかったはずだ。 蓮二もそう思ったのか物珍しそうに俺達を眺めている。 大方データでも取っているんだろう。 俺は早く助けて欲しいのに。 結局、蓮二が柳生を宥めて俺から引き離してくれるまで、数十分かかった。 「落ち着いたか、柳生」 「…はい…お恥ずかしいところを見せてしまいました…申し訳ありません」 「まったくだね」 どうにか落ち着いた柳生は、記憶に残る丁寧さで深々と頭を下げた。 ポケットから出したハンカチで眼鏡の奥の目を拭っている。 予想外の怪力で鯖折りにされた俺は腰をさすりながら忌々しく柳生を睨み付けた。 「…本当に…申し訳ありません」 「謝罪はもういいよ。そんなことよりここ最近の奇行の原因を話せよ」 「何と…!幸村くん…!私のことを気にかけていて下さったのですね!それなのに私ときたら身近に私を想って下さる存在にも気付かず恥も外聞もなく暴走などと紳士にあるまじき行為を、」 「分かったから、黙って」 柳生に任せてたら話が進まない。 俺は途中で遮った。 事実をポジティブに解釈出来るこの紳士と俺じゃ、あまりに会話が不自由だ。 助けを求めるように蓮二を見ると、蓮二は頷いた。 「柳生、精市は本当にお前を心配して、何故暴走したのかを気にかけている。原因を教えてやってくれないか」 事実を若干湾曲して伝えた蓮二の言葉に、柳生は更に声を詰まらせて涙を拭った。 「幸村くん…!こんな私の為に心を痛めてくださっていたなんて…!こんな素晴らしい友人を持って私は幸せです!」 「ウン、分かったから、原因」 柳生は照れたように俯いて、やっと話し始めた。 「…数ヶ月前、仁王くんがご自分の体に戻られたでしょう」 「ああ、そうだね」 仁王なら件の大学病院でリハビリに励んでいる。 俺も時々見舞いに行くが、順調に悪戯っ子だ。 「それで、私…仁王くんは大切な友人ですから、祝うべきだと思ったんです」 そういえば仁王は柳生のいるこの音楽室によく来てたっけ。 あの詐欺師とこの紳士が何で仲良くなったのか理解に苦しむけど。 「でも…でも仁王くんは体に戻られる際に私に一言の挨拶もなしに行ってしまうし…あ、でも仁王くんがそういった面で大雑把なのは私も良く分かっているんですが、寂しくて…」 「……………」 「しかも仁王くんが体に戻られてからというもの、異形の方々は誰一人として音楽室を訪ねてきてくれる方もなく…」 ちらりと蓮二に視線を送る。 蓮二は少し気まずそうに目を逸らした。 …こいつ…人にあれこれ言っといて自分も柳生のこと忘れてたな… 「私は元々人様に迷惑をかけることを好みません。今回はそれが災いして、皆様に私の存在を忘れられたのではないかと思い…寂しくて…皆様に…仁王くんに会いたくて会いたくて震えてしまい、」 言葉に詰まり柳生はピアノに突っ伏した。 不協和音を奏でる鍵盤をよそにもう一度蓮二を見る。 「や、柳生。誰もお前を忘れてなどいない」 「…そうでしょうか…」 「当然だ。…ただ…アレだ…ほら、お前は仁王の一番の親友だっただろう。だから仁王を失った悲しみにうちひしがれているだろう柳生に、皆かける言葉がなかったというか…そっとしておいてやりたかったんだ」 ナイスフォロー!蓮二! 蓮二のフォローが効いたのか、柳生は鼻を啜りながら顔を上げた。きたねぇなぁ。グチャグチャじゃねーか。 「…柳くん…!」 「誰も忘れたりなんかするもんか。お前は俺達の大切な仲間だろう?」 「…!柳くん…!」 柳生はピアノから離れて蓮二に抱き付いた。 が、鼻水がつくのが嫌だったのだろう。蓮二は寸でのところで柳生の肩を掴んで止めた。 「…ほら、精市もお前を心配してこうしてわざわざ来てくれたんだから」 「幸村くん…!私は一人じゃなかったんですね…!」 「そ、そうそう。ほら、柳生、お前とはまだミステリの話もし足りないしさ、霊障を起こすのはもうやめて仲良くやろうよ」 蓮二のアイコンタクト(目ぇ閉じてるけど)で、俺も慌ててフォローに回った。 こういうのは慣れてないから苦手だ。 でも音楽準備室のため!豊かなサボり場所確保のためだ! 「ありがとうございます…!私はこれから心を入れ替えて、」 「ちーッス。あ、柳さんこんなとこにいたんスかぁ」 …………… がちゃりと扉が開いたと同時に飛び込んできた元気な声。 声の主を悟った瞬間、蓮二は顔を覆った。 俺も嫌な予感に顔をひきつらせる。 「何してんスか、音楽室なんかで。…?あれ?新人の霊ッスか?初めまして!悪魔の赤也です!」 …まったく悪びれない、天真爛漫な笑顔を向けられた柳生の眼鏡にヒビが入った…気がした。 |