紫陽花少年 初等部を出て10分くらい歩いた先に、高等部がある。 俺は小春さんが忘れた委員会の資料を届けるために、今日放課後ここに来た。 「…何で俺まで…」 若と一緒に。 「別にお前今日暇なんやからええやろ」 「暇だからってお前の兄貴の為に時間を割く理由にはならない」 無事に資料は届けられた。 後は帰るだけや。 せやのに若は未だにグチグチ文句言っとる。 そない嫌なら断ればええのに、何だかんだで着いてきてくれるから俺はそう悪い気はしない。 「それにしても高等部は広いな」 「せやなぁ。3年通ったくらいじゃ覚えられる気ぃせんわ」 しかも建て替えしたばっかりのこの敷地はどこも綺麗で、やけに似たような道ばっかりや。 小春さんの委員会の教室からまっすぐ昇降口に向かっとったはずやのに、何度か角を曲がったせいでよう分からんくなってきた。 「チッ…どこだここは」 「こんなとこ行きは通ってへんよな」 時間は放課後、委員会やら部活やらの人間はもうそれぞれの場所に行ってもうてるからか廊下に人通りはない。 「…迷ってもうたな」 正直にそう言うたら、若の拳が右頬にヒットした。 「…まぁお前を殴ったところで現状がどうにかなるわけじゃないな」 「殴る前に気付いて欲しかったけどな」 「一回お前の兄貴の委員会の教室に戻るか?」 「……………」 若の言葉に、歩いてきた廊下を振り返る。 真っ白で空々しい新品の廊下。 ここに来るまでに何回角を曲がったやろうか。 「…お前道覚えとるんか」 「……………」 …手詰まりやった。 もしかしたら教室に誰か残ってるかもしれない。 静まり返った廊下にその希望は薄い気もしたがその辺は口には出さんで、俺達は各教室を覗いてみることにした。 どっかの教室で小春さん待ちのユウジくんが寝てたりしてへんかな。 入口のクラス名を見てみれば、この廊下は1年生の教室が並んでるらしい。 ユウジくんは3年。いくらなんでも1年の教室にはおらんやろう。 俺は小さく溜め息をついた。 1-Bと書かれた教室の後ろの扉を開く。 誰もおらんやろう。 ぱっと見てそう思ったんは、その人が廊下側の一番後ろの席で静かに顔を伏せとったから。 気付いた瞬間びっくりして声を上げそうになったのをぐっと堪えた。 後ろに控えとる若の前でビビって大声出すなんてカッコ悪いからイヤや。 「…あの、」 眠っているのかピクリとも動かへんその人に恐る恐る声をかける。 服装は高等部の制服やけど髪の毛が真っ白や。 なんやこの色。ユウジくんも緑やしこの学校校則ユルすぎやないか。 「あの!」 「………」 …起きへん。 困って若を振り返ると、若は廊下の掃除用具入れから箒を取り出しとるところやった。 「…若、何する気や」 「起きぬなら、叩き起こそうホトトギス」 「物騒やな」 けどまぁ俺が痛い思いをするわけでもない。 それに声をかけたのに起きないこの人も悪い。 俺らは早く帰りたいんや。 そういうわけで俺は若が箒を振りかぶるのを黙って見ていることにした。 眠る誰かさんの頭に、箒の先端が埃を立てながらヒットする。 埃がついても目立たなそうな頭でええな。 誰かさんは一瞬びくっとして頭を上げた。 「…何するんじゃ、比呂」 どこかボンヤリした声でその人が振り返る。 寝ぼけてるのか焦点の合ってなかった目が、俺達を見てぱちりと開いた。 勿論俺達はヒロとやらではない。 「………誰?」 「初等部5年の跡部若です」 「…え、あ、同じく5年の白石光です、」 まったく動じずに自己紹介する若に倣って俺も自己紹介してみた。が、この人が聞きたいのはそういうことやないんやないかな。 そう思ったのに意外にもその人は満足そうに笑った。 とりあえず怒ってはないみたいやし、余計なトラブルにはならなそうで安心した。 「跡部若に白石光、うん。聞いたことあるぜよ」 若はともかく俺まで? 高等部に噂が届くほどのことはしたことないはずやけど。 「跡部家は言わずもがな、高等部にいる白石蔵ノ介の息子から弟の名前も調べがついとるからのう」 その人は俺の表情を読んだのかニヤリと笑ってそう言った。 …調べって。この人なんやねん。探偵? 見た目も言動もあまりにも胡散臭い。 「で、そのお二人さんが何で高等部で俺を箒で攻撃したんじゃ?」 「この馬鹿のせいで迷子の巻き添えを食いました」 若が親指で俺を指す。 「ここは広いから迷うのも仕方ないぜよ」 「昇降口まで案内して欲しいんやけど、ええですか」 「まぁ、ええよ。どうせそろそろ時間じゃし」 その人は机の横にかけてあった鞄を持って立ち上がった。 やけにぺっちゃんこな鞄や。どう見ても教科書が入っとるようには見えん。 「予定があるんですか」 「予定ってほどのモンでもなか」 彼は先に立って歩き、俺と若がその後を追う。 猫背気味なその背中は痩せとって、でもやっぱり俺達よりは大きい。 迷子を助けてもらったこともあってその背中はすごく頼もしく見えた。 「ところで、あなたは誰なんですか」 若がそう聞くと、彼はちらりとこちらを見て笑った。 「幸村雅治」 それだけ言うと彼…幸村雅治はまた前に向き直る。 幸村…なんや聞いたことがある。 確か、うちによう勉強しに来るユウジくんのクラスメイトも幸村って名字やった気がする。 名前はなんやっけ、幸村…幸村…確か… 「幸村…レンジ…?」 うん、確かそんな名前やった。 「おお、気付いたか。賢い子じゃ」 「こないだユウジくんがめかしこんで遊びに行ったの、あんたんちッスか」 「そうじゃ。うちの親父さんが迷惑かけたの」 まったく悪いとは思ってなさそうな楽しそうな声。 こないだ幸村家から帰ってきたユウジくんの疲弊しきった表情を思い出す。 親父どころか兄弟も怖かったわ、とこぼしていたが、俺は口をつぐんだ。 この人が幸村家の人間なら俺の名前を知っていたことも不思議じゃない。 きっとレンジって人かユウジくんに聞いたんやろ。 俺かてユウジくん経由で幸村家の人の話聞いたりするしな。 その情報によると確か幸村家の兄弟は長男のレンジに対して度を越えたブラコンだとか。 クールな表情や人を食ったような喋り方を見る限り、そんな風には見えへんけど。 「ほら、昇降口はそこじゃ…」 「雅治!遅いわよ!」 見覚えのある下駄箱の並ぶ景色を指差した幸村雅治の腕に、どっから来たんかスーツ姿の女がしがみついた。 ばっちり化粧してくるくるに巻いた茶髪、どう見ても高校生どころか学校の関係者にも見えない。 「おお、すまんの。迷子の小学生を案内しとったんじゃ」 「もう…雅治は優しいんだから」 「その分今日は夜まで一緒におったるよ。…許してくれる?」 「お泊まりしてくれるなら許してあげる」 その女が現れた途端、幸村雅治の表情が変わった。 どこか甘い、見つめられたら女ならイチコロでとろけそうな表情で女の髪を撫でている。 …何や、ブラコンや言うても彼女はちゃんとおるんやな。 「それじゃ、先に車で待っとって。この子ら校門に連れてったら行くから」 「分かったわ。早く来てね」 女は俺達をチラッと見て、小さく微笑んでから幸村雅治の腕を話した。 颯爽と去っていく後ろ姿を、俺と若は靴を履くのも忘れて眺める。 「…綺麗な彼女さんですね」 若の呟きに俺も頷く。 派手やけど確かに美人やった。 「何じゃお前ら、ああいうんが好みか」 「俺はもっと和風美人のがええですけど」 「俺もじゃ。ああいう派手なんは好かん」 …は?あんたの彼女やろ。 そんなこと言うてええん? 幸村雅治は俺を見てにやりと口角を上げた。 「好みじゃなくてもああいう女は便利なんじゃ」 「どういうことですか?」 「仕事は出来るけど男が寄り付かんタイプ。落とすと俺の為に何でもしてくれるぜよ」 …………… 悪い男や! 唖然として、つい隣にいる若を窺う。 若も驚いとるんか目をぱっちり開けて頬を染めている。 「おまんらも一人や二人ああいう女作っといた方がいいぜよ。欲しいモンがある時なんかえらい便利じゃけぇ」 ニヤニヤ笑いながら幸村雅治は俺達の頭をポンポンと撫でた。 「ああ言ったけど、さすがに校門は分かるじゃろ?」 「え?あ…はぁ…」 「ほなここまででええな。気を付けて帰りんしゃい」 「は…はい、」 幸村雅治は靴を履き替えてさっさと昇降口を出た。 俺達はしばらくその場から動けんかった。 もうすぐ夕暮れや。 日が長くなり始めて、まだ辺りは明るい。 校門を出たら目の前を白いポルシェが通り過ぎた。 白い車体に負けないくらい白い髪の男が助手席に座っていたような気がする。 一瞬のことやったけど。 「…若、今日は付き合うてくれておおきにな」 俺は幸村雅治みたいにはならない。 好きな子だけをちゃんと見て、大事にしてあげよう。 幸村雅治は俺の反面教師として心に刻むことにした。 だが俺の言葉に若の返事はない。 若はポルシェの走り去った先をまだ見つめていた。 「…若?」 「………悪い男だったな」 「ん?ああ…そうやな」 若の様子がおかしい。 どこかぼんやりしている。 若の周りにはああいう悪い男がおらんから免疫がないのかもしれん。 無理矢理連れて来て悪いことしてもうたかな。 「…悪い男って、カッコイイな…」 その日から俺はチョイ悪になるべくヤンキー雑誌を買い込んで、謙也くんに「光が非行に走った!」と騒がれることになるんやけど、それはまた別の話。 |