お互いの為にも携帯は見ない方がいい





わんが小学校に入った年、一緒に入ってきた学校事務のオネーサンは、子供心に見ても綺麗な人だった。
上級生の男子なんかは無意味に事務室に通ったりしてる、って話を聞いたのは後のことやしが。

まぁチビの頃から同級生から頭一個分、縦にも横にもデカかったわんは女なんかより当然食い気優先で、入学式で新しい職員の紹介でそのオネーサンを見たっきり、完全にその存在を忘れてた。






「慧くん」
「ん。…あ、父ちゃん」

わんが入学したばかりの頃、その頃3年生の担任しとった父ちゃんは毎日のようにわんのクラスに様子見に来てた。

「いい子にしとるばぁ?」
「…そんなにしんぱいせんでもいいさぁ。楽しくやっとるあんに」

いつも同じセリフ。同じ答え。
お決まりの答えを聞いて安心したように微笑んで、わんの頭を撫でて教室を出ていく父ちゃん。



そんな毎日が半年くらい過ぎて、ある日を境に父ちゃんは教室に来なくなった。



わんは全然気にしとらんくて「そういえば最近来ないな」と気付いたのは、昼休みに例の学校事務のオネーサンと並んで歩く父ちゃんを見掛けた時だった。

「…あ」
「どした、慧…あ、慧の父さんじゃん」

一緒にグラウンドに行こうとしていた友達は言った。

「あの女の人、事務のひと?美人だって俺の兄ちゃん言ってた」
「ふ〜ん…」

その言葉で初めてその人が入学式で見た職員だと気付いた。

小柄な彼女に合わせるように少し屈んで話を聞く父ちゃんは笑顔だ。
そんなに表情豊かな方じゃないのに珍しい。
彼女は肩までの髪を揺らして父ちゃんに向けてニコニコ笑ってる。時折腕に触れながら。

…母ちゃんと全然ちがうな。

オネーサンに対するわんの感想は、そんなもん。






もしわんがもっと頭が良くて、空気の読める子供だったらいくらかマシだったのかもしれない。



「………え?」
「うん、だから今日でーじちゅらさんなオネーサンと父ちゃんが廊下で話しとるとこ見たんさぁ」

学校から帰って、まだ小さい凛と裕次郎の面倒を見とった母ちゃんに今日あったことを話したら、母ちゃんは顔色を変えた。

「がっこーじむの人だって。ちっこくて髪がながくってニコニコしながら父ちゃんの腕触っとった」
「……………」

母ちゃんの手の中で凛のジュースが入ったプラスチックのコップが割れた。

「…母ちゃん、凛が溺れとる」

突如頭上から降ってきたジュースにパニックになった凛があわあわと暴れている。
泣き出す凛につられて裕次郎も泣き出した。うるさい。

「………知念クン…俺のいない所で随分調子良さそうですね…」

泣き声を気にも止めないで低く笑う母ちゃん。
どうやらわんは言ってはいけないことを言ってしまったらしい。

「ぎゃあああああん!」
「ぎゃあああああん!」
「かしまさい!黙れ!」

理由は分からんがとにかく母ちゃんを怒らせたことを悟ったわんはとにかくこれ以上母ちゃんを怒らせないように凛と裕次郎を黙らせることに専念した。






その日、帰って来た父ちゃんに対する母ちゃんはいつも通り笑顔だった。
いや、いつもより優しいくらい。
ご飯の時凛を膝に乗せとっても文句ひとつ言わない。

「永四郎、何かいいことあったんかやー」
「いえ、別に。…知念クンは今日はいいことありました?」
「んー?いつも通りさぁ」

その時、父ちゃんの携帯が鳴った。メールだ。
父ちゃんはさっと目を通して少し笑った。

「誰から?」
「職場の同僚」
「ふぅん…男の人?」
「…うん」



嘘だ、…と、わんでも分かった。



父ちゃんは愛想のある人ではないけれど、ポーカーフェイスではない。
嘘はつけない。すぐバレる。
…どうしよう、今母ちゃんが怒り出したら飯が食いづらい。

「…そうですか」

予想に反して母ちゃんはにっこり笑った。
わんは心の中で首を傾げる。
わんでも気付いたのに母ちゃんが気付かないわけがない。
でもわんはとにかく腹が減っていたので、これ幸いと目の前の飯に集中した。






問題が起きたのは、父ちゃんが凛と裕次郎と風呂に入っていた時だ。
わんはとっくに風呂から上がってアイス食べながらテレビ見てた。

母ちゃんがテーブルに置かれた携帯を開くのが横目に見える。

「…それ父ちゃんの携帯さぁ」
「慧クンは黙ってなさいよ」

大人しく黙り込んだ。
母ちゃんの顔色が変わっていくのを見ないフリをしつつ見る。

「………慧クン」
「…はい」
「………今日は早く寝なさい」
「…はい」

母ちゃんが食器を洗うために台所に立った時を見計らって、わんはそっと父ちゃんの携帯を開いた。

一番上にあるメールを見る。
漢字は読めないけど、最後に「子」がついてたから女だと分かった。
その名前があのオネーサンの名前かは分からない。

「……は、理科の…、…かせてくれてありがとうございました…ちねん先生って……いですね…また……も………かせてくださいね、」

分かる漢字と平仮名だけじゃ内容は分からない。
でもふんだんにハートの絵文字が使われた可愛らしいメールだった。

「こら、慧くん」
「ん」
「勝手に携帯見ちゃならんばぁよ?」

風呂から上がった父ちゃんに携帯を取り上げられる。

母ちゃんの顔色が変わった理由があのメールなら、修羅場は必須だ。早々に逃げるが吉。

「慧くん?」
「もう寝る」
「ん、ゆくいみそーれ」

まだ父ちゃんと遊びたがる凛と裕次郎を連れて無理矢理部屋に戻った。
勿論凛と裕次郎が寝たらこっそり様子を伺いにいくつもりで。






なかなか眠らない二人に苛々したものの、やっと眠ったのを確認して静かに部屋を出た。
足音を立てないように階段を降りて一番下の段に座り込む。
安普請なので充分二人の会話は聞こえた。

「…何で怒ってるか分かってるよね?」
「…女とメールしたから、…ですか…?」
「それはまだいいんですよ。嘘ついたことを俺は怒ってるの!」
「…それは…むしろ永四郎に気を使った結果というか…」

怒られてる怒られてる。
わんは父ちゃんに同情半分、面白半分で苦笑した。

「俺は女とメールしたくらいで怒るほど心が狭いと思われてるんですか」
「いや…現に怒ってるさぁ…」
「君が嘘をついたからね!」
「そのことは謝るさぁ」
「慧クンに聞きましたよ、学校でも随分仲良くなさってるそうで。小柄で髪が長くて可愛い人なんだって?」

わんの名前が出たことにビックリした。
ヤバい、対岸の火事じゃなくなってきた。これじゃ楽しめない。

「…慧くんが言ったんばぁ?」

案の定父ちゃんの声のトーンが下がった。

「いいですよね、知念クンは外で働いて気晴らしが出来て可愛い女の子にも会えて。俺は家で家事して子供の面倒見るだけの毎日なのに」
「それは今関係ないさぁ」
「子供のことばっかり構ってる俺なんかもう魅力ないんでしょ。どうぞその女のとこでもどこでも行けば?止めませんよ」

どんどん不穏な空気になっていく。
父ちゃんもさすがにイラッときたのか声の調子が変わってきた。

「…永四郎、本気で言ってるんばぁ?」
「………俺は本気ですよ」
「…わんは永四郎以外要らん」
「……………」

父ちゃんも母ちゃんも割と気が短くて頑固だから、一度拗れるとお互いなかなか素直になれない。
…というのは成長してから思ったことで、この頃のわんはただハラハラしながら二人の会話に聞き耳を立てるだけだった。

「永四郎が本気で出てけって言うなら出てくさぁ。やしがわんは疑われるようなことはしてねーらん」
「…疚しいところがないなら嘘なんかつかないでしょ」
「そのことは謝るって言ってるさぁ!」
「もういい!知念クンの馬鹿!」

一瞬のことだった。

バタン、と大きな音がして、母ちゃんが居間から飛び出して、階段に座る俺の横をすり抜けて行ったのは。
「慧クン寝なさいって言ったでしょ!」と怒鳴りながら。

後を追って居間から出てきた父ちゃんはわんを見てちょっとビックリした顔をしてから「…慧くん…」と低い声を出した。

「………わっさいびん…」

…その時のわんにそれ以外何が言えただろう。






寝室に籠った母ちゃんは、父ちゃんが何を言っても出てこなかった。
仕方ないからその日父ちゃんはわんと寝た。

「あの人、沖縄出身なんばぁよ」
「…ふーん…」
「永四郎ビックリさせたくて。あの人ぬ実家、硝子工房だから…それで、」
「…ふーん…?」
「欲しがってた皿買わせてもらって…内緒にしたかったから言えんかった」
「…へー…」

布団の中で眠気と戦いながら聞いた父ちゃんの話の内容はもう覚えてない。






翌日も、その翌日も母ちゃんは寝室から出てこなかった。
いや、正確にはわんと父ちゃんがおらん時間帯は出てきてたみたいやしが。
凛と裕次郎は元気にしてたし。

「父ちゃん…コンビニ飯でもわんは構わんけど、いい加減仲直りした方がいいさぁ」
「…ん、」 
 
父ちゃんは申し訳なさそうにちょっと笑って、凛と裕次郎の頭を撫でていた。 
 
 
 
 
その次の日、朝起きたら母ちゃんが普通に朝飯作ってた。

「……………」
「おはよう、慧クン。早くご飯食べなさい」
「……………うん」

既にテーブルについていた父ちゃんはわんを見て「おはよう」と小さく言った。

「…どうやって引きずり出したんばぁ?」

小声で聞いてみると笑われた。

「………愛の力」
「ぬーがよ、それ」

運ばれて来た食器がいつもと違う琉球硝子のものになっていたのは、関係あるんだろうか。



「じゃあ永四郎、行ってきます」
「ん、行ってらっしゃい」

慌ただしく片付けやら何やらしてる母ちゃんに、父ちゃんが近付いて軽く腰を抱く。

「……………」

子供の前であまり大っぴらにイチャつくのはどうなんだろう。
母ちゃんのオデコにチュッてして、父ちゃんはさっさと学校に行ってしまった。



綺麗な硝子の器に盛られたサラダを食べながら、ま、喧嘩してるよりいいか、と自分を納得させた。



ちなみにその器は1年後に凛が割った。



 


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