I love youを訳してください





「…その、だな、千里」
「うん?」



その日、桔平はどこかおかしかった。

黙り込んだかと思えば何か言いたげに視線をさ迷わせて、何かを言いかけては結局何も言わずに当たり障りのないことを言う。
あまり人の気持ちに敏感ではない俺でさえ気付くくらいだ。
桔平と付き合うことになって数年、こんなにはっきりしない桔平を見るのは初めてだった。



二人で外食した帰り道、同棲している部屋に帰る途中。
桔平はまた足を止めて視線をさ迷わせた。
街灯の下、桔平の吐く白い息が妙にはっきり見える。



「…その。…あ〜…、月が綺麗、だな」
「………月?」

見上げた空は雲が覆っている。
月は雲の隙間から少しだけ輝きを覗かせてはいるが、綺麗と言うほどではない。

「……………」

月が綺麗ですね

そのフレーズに聞き覚えがあって首を傾げる。
すぐにピンときた。ロマンチストな弟が一時期やたら言っていた。
確かどこぞの偉い人がI love youを「月が綺麗ですね」と訳したとかなんとか。

「……………」
「…な、何でもない。忘れてくれ、」
「そうばいねぇ。こげん綺麗な月、見たことなかよ」

桔平がそんなロマンチックなこと言うなんてちょっと意外だった。
でもそんな遠回しな愛の告白も悪くない。
桔平はただでさえなかなか好きだの何だの言ってくれないのだ。嬉しくないわけがない。

「桔平とこげん月夜に散歩っちゅうんもよかねぇ」
「遠回り、していくか」

そのままいつもの道のりではなく、広い公園の中を通る。
吹き抜ける風は冷たくて、木の繁る公園は薄暗くて、お世辞にもいい雰囲気とは言い難い。
でも俺はその雰囲気が嫌いじゃなかった。



「………それで、だな」
「…うん?」

しばらく黙っていた桔平がまた言葉を詰まらせる。

「…これ、お前に」
「何ね?」
「………開けてみろ」

ポケットから出した小さな箱を押し付けられた。
何だろう。誕生日プレゼントはちゃんともらったけど。

かじかむ手で時間をかけて包みを開ける。

「……………」

小さな箱の中には指輪が入っていた。

「………け、結婚しないか」
「無理」 
 
 
 
…翌日から桔平はうちに帰って来なくなった。






「…それはどう考えても千里が悪いやろ」

桔平が部屋に帰って来なくなって三日。
仕事帰りに謙也の勤める病院に寄って、半ば無理矢理引きずって我が家に連れ込んだ。
「橘先生は?」と聞いてきた謙也に事の次第を話すと、まず返ってきたのが上のセリフというわけだ。

「…そう、かねぇ」
「悪いことしたと思わへんの?」

悪いことも何も、俺は今の自分の気持ちを正直に伝えただけだった。
無理なものは無理なのだ。
桔平が好きとか嫌いとか、関係なく。

「もういい加減ええんちゃうの。親父のことは」

謙也は恐らく未だに俺と親父の長きに渡った気まずい関係を気にしているのだろう。

「いや、親父は関係なかよ」
「そうなん?」
「金ちゃんも高校生やし…一緒にいれるのは今のうちだけっちゃろ?やけん今は結婚とか考えられんだけばい」

謙也に言ったことは事実だった。
未だに心配をかけている謙也には悪いが、親父とはもう随分前に和解している。
今更親父のせいで結婚出来ないなんて言うつもりはない。
大体親父と俺じゃ相手が違う。
俺の相手が桔平である限り親父と同じ轍は踏むはずがない。



「やからってもっと言い方あるやろ」
「何か咄嗟に出てしまったと」

さすがの俺もたった二文字でプロポーズを一蹴してしまったのは悪かったかなと思い始めている。

でももう習慣なのだ。
桔平の言葉に正直に端的に答えるのが条件反射になっていると言っても過言じゃない。

「ちゅーか橘先生どこに泊まっとるんやろ」
「さぁ。桔平の行動範囲は知らんけん」
「誰かさんにフラれて傷心捨て鉢になって浮気しとったりしてー」

謙也がわざとらしく意地悪な声音でそんなことを言うので、思わず笑った。

「ないない」
「…えらい自信やん」
「桔平はそういうとこ真面目やけん。浮気するくらいならまず俺と別れると思うたい」
「………付き合いも長すぎると心配さえしてもらえへんのやな」

呆れた声で謙也が言うので、俺はまた笑った。
心配はしてる。事故とか病気とか、そういった意味で。
でも浮気の心配は不思議なくらい沸いてこない。

だって俺は、桔平が結婚したいと思った唯一の相手だから。

…そういった意味では、確かに謙也の言う通り、自信なのだろう。






「………え?」

翌日、仕事中に携帯にかかってきた電話は、金ちゃんからだった。
金ちゃんから電話がくるなんて本当に本当に珍しい。
俺はもちろん仕事なんかほったらかして休憩所に走った。

電話の内容は、ちょっと予想もしなかったものだった。

『せやからー、橘先生。宿直室に泊まっとるんやって。なんで?千里と住んでるんちゃうん?』
「待って、何で金ちゃんがそんな話知っとると?」
『今朝中等部に用あってん。そしたら宿直室から橘先生が出てきたから』

喧嘩でもしたん?なんて無邪気な声で聞いてくる金ちゃんに愛しさを覚えながら、心配しなくていいと伝える。
あんなに小さかった弟が兄の交際関係を心配するようになるなんて、感無量だ。

『宿直室寒いから風邪ひいてまうで!早よ家に帰った方がええんちゃ…あ!リョーマや!ほなな!千里!』

金ちゃんとの電話はかかってきた時と同じように唐突に切れた。

金ちゃんからの電話だと分かった瞬間から起動させていた録音を再生して短い通話を堪能しながら、思う。



「…ま、今回はしょんなかね…」



いつもは俺を迎えに来てくれる桔平を、たまには迎えに行こう。
今回は俺が悪いのだし。

携帯を閉じると手塚ブチョーがやってきて「白石、今日は残業だ」と言った。






ブチョーの命令で残業を終えた頃、時刻はもう22時を回っていた。
疲れた目を揉みながら桔平のいる学校へ向かう。

暗闇の中にぼんやり佇む巨大な建物は不気味だった。
いくら綺麗で立派な学校でも、夜の学校はそれだけでいやな威圧感がある。
桔平はよく平気なものだ。



「…宿直室ってどこっちゃろ」
「というかうちの学校は基本関係者以外立ち入り禁止だ」

返事が返ってこないはずの呟きに返ってきたのは、四日ぶりに聞く恋人の声だった。

「桔平、どっか行ってたとや?」
「コンビニで飯買ってきた」
「あ、このラーメン俺好き。ちょうだい」
「駄目だ」

会ったら最初に何を言おうとか、考えていたはずだった。
珍しく少し緊張したりなんかして。
なのに会った瞬間、桔平の声を聞いた瞬間、何もかも大した問題じゃないように思えた。

桔平からのプロポーズも、俺がそれを断ったことも、離れて過ごした四日間も。



…ああそうか。
やっと分かった。



俺は俺の人生に、桔平がいないなんて考えられない。



「まだ帰らんとや?」
「…そろそろ帰るかな」
「ん。じゃ、帰ろ」

宿直室に置きっぱなしの桔平の荷物は明日回収することにして、コンビニ袋と財布を持っただけの桔平の手を引いた。






「桔平、月が綺麗ばいねぇ」
「…ん?ああそうだな」
「こんだけ月が綺麗やけん、遠回りして帰ろっか」
「そうだな」



月のない曇り空、冷たい風に身を縮ませながら。

俺の左手の薬指には確かに何より綺麗な満月が輝いていた。



 


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