「…っく…ひ、っく…」



薄暗い部屋にすすり泣く声が響く。
澱んだ空気の中を彷徨うその声は、もうずっと続いていた―――



「………チッ」

小さく舌打ちすれば、露骨に震え上がるその肩。

最近、苛立ちが治まらない。

最初は好きだったのに。
その震える姿も堪らなく俺の欲情を煽るものだったはずなのに。



自分が間違えたとは思いたくない。
俺は認めたくない。



全てを捨てて手に入れたこの生活が間違っていたなんて―――――

そんなはず

ない。






昨日、久しぶりに財前に明け渡した俺の部屋に行った。
そこに居た財前を見た時、途端にほっとしたのはきっと気のせい。
従順な財前は、今も主人に待てと言われた犬のようにあの場所で待っていた。



『抱いてください』と言われた。



堪らなく抱きたかった。
でももう、俺は財前に触れることは許されないことのような気がしていた。



『もう お前なんか 抱かん』



俺は



逃げた。




「なぁ、いつまで泣いとうと」
「…っ、ちと、せ…」

俺は泣かれるのが好きじゃない。
白石じゃなかったら殴ってる。
事実、俺はこの部屋で白石と暮らすようになってから、かなり優しく彼には接してきたつもりだった。
最初は泣く彼を俺なりに宥めたりもしていた。

…でももう、それすら面倒臭い。

何でこいつが財前じゃないんだろう。



「………」

ふいに浮かんだ考えを、すぐに打ち消す。

財前なんて求めてない。
俺が求めていたものは、ここに居る白石。

「ちとせ…もう、やめよ…?こんなん続けても…何もならん…」
「へぇ?で、白石はオサムちゃんとこ戻るとや。そんな汚なか体で?」
「………ッ」

此処に来てから何度も犯し、汚した体。
そんな体でオサムちゃんの元に帰るなんて、オサムちゃんが許しても自分自身が許さなかとやろ?白石…



「っ、もう、嫌や…!」

はじめて

白石から拒絶の言葉が出た。

「………へぇ?」
「千歳が…求めてるのは俺やないやん…」
「…は?」
「千歳がホンマに俺を好きなら…ッ、それなら俺、このままの関係でもええと思ってたッ…」

このままでいい?

何だコイツ…頭オカシイんじゃなかね?
監禁されて、恋人もテニスも全て奪われて、最も怖いはずの俺しかいない生活、それを受け入れるって?

「…はっ…」

泣きじゃくる白石に苛々しながら、あまりの馬鹿さ加減に笑えた。

「白石…ずっと言っとうとやろ?………俺は白石を愛してる」
「…ぅそ、や…」
「白石、愛しとう…」
「嘘やッ」



どうしても俺の言葉を受け入れようとしない白石を、初めて殴った。



…何でわかってくれんと?

何で。

オサムちゃんの言葉なら受け入れるっちゃろ?
俺の愛だから要らなかとやろ?

「何でっ…!こげん好いとうのに…!」

半ば叫ぶように吐き出した声は、俺のものじゃないかのように震えていた。
俺を見つめる白石の目から、涙はいつの間にか零れていなくて、俺をまっすぐに見つめていた。
…彼にそんな風に見つめられるのは随分と久しぶりな気がして、気付いた。



「千歳…ここに来てから初めて…俺の顔見てくれたな…」

……………



嘘だ



「俺…ちゃんと千歳のこと見てたんよ…」

嘘だ

「千歳がホンマに好きなんは」

やめろ

「―…」

白石の唇が全ての言葉を紡ぐ前に、硬いフローリングに白石の体を押し倒す。

それ以上の言葉は聞きたくない。
本当のことなんてもう無駄なんだ。
何の意味も持たない。

思えばずっと朦朧としていた意識が、俄かに覚醒し始める気がした。
霧が晴れ始めた視界の中で、白石は俺を哀れむような目で見つめていた。



見たくない

何も



「白石…愛してる…」



愛を囁けば、視界にまた、靄がかかった。






「あっ…ぁぁッ、んッ、んぅ…!」

無理矢理拓いた体は諦めたように抵抗を示さない。
抵抗が無駄なことなんて、とっくに彼は分かっているから。

指に絡めた媚薬の入ったローションのせいで、指を動かすたびに卑猥な音と、中の熱が増すようだ。

「白石、むぞか。ずっと欲しかったとよ…」
「、ん…だめぇ…ちとせ…」
「その声もその体もその顔もその心も、全部…」

それが俺の真実。

「ひっ…あ!ちと、せ…ッそこ…!」

この数週間で熟知した白石の感じる場所を、ギリギリで掠める。

「やぁ…!ちとせッ…そこ、違ぅん…っ」
「あ?そうやっけ?俺馬鹿やけん忘れてしもた。…教えてくれんね」
「……ッ」

媚薬が効いてるのか、白石はいつもより素直。
薬を使えば、俺の欲しかった淫らで素直な愛おしい白石が手に入る。
白石は俺の手首を握って、自分の感じる場所に誘導するように動かした。

「あ、あ…ッ!ちと…!おねが…ッ外さんでぇ…ッ」

わざと白石が動かすたびに指先をずらして、的確には触ってあげない。
可愛い…
そう、これが真実。

「ちとせ…!お願いッ…なか、疼くん…ッ」

長い睫に彩られた目を堅くつぶって、紅潮した頬で、惜し気もなく俺を誘う。

「…むぞらしか…」

可愛い
好きだ
愛してる

俺の口を自然につく言葉。
俺の素直な気持ち。

時折うっすら開く目が俺を見る時、快感以外のものが見えた。

―――同情?

冗談…
白石に同情こそすれ、俺が白石に同情される理由なんてないはずだ。

「ひ、ぁあッ!あぁあッそこ、ええのぉ…ッ!」

可愛い白石のオネダリを聞くため、俺の指は今度こそ的確に動き始める。
白石は最も感じる場所を押し上げられて、さっきの表情なんてまるでなかったかのように快感に酔い始めた。



「あ―ッもう、ぁかん、イ…ッ!」
『せんぱぃ…ッ』



―――――



…愛しい白石が達した瞬間、俺の頭を過ぎった男。



「ぁ…は、ぁ…あ…ち、とせ………?」



『ちとせせんぱい…すき』



「……………千歳…ホンマにもう…終わりにしよ………?」



目が熱い。
白石の終わりを告げる言葉に胸が痛い。

怖い

白石が離れることがじゃない

白石が離れることが怖くない

そんな自分に。

目が熱いのは泣いてるからだ。
って、俺はなかなか気付けなかった。






「千歳が好きなんは…財前やろ…」






こわい

こんな俺を、財前が愛してくれるわけがない。
だって、神は死んだんだ。
財前がまだ俺を愛してくれてるなんてそんな都合のいいことあるわけない。

俺はもう白石しかいないんだ。
手遅れなんだ、何もかも。

「千歳」

白石の白くて細い腕が、俺の頭を抱え込んだ。
初めてくれた白石からの抱擁は、どんなセックスよりも温かかった。



「…っ、たすけて…白石………っ」



恥も外聞もなく、白石の腕の中で泣いた。
色んなことを思いながら、ごめんなさいと呟いた。

俺が捨てたテニス部に、
裏切ったオサムちゃんに、
取り返しのつかないことをしてしまった白石に、

―――財前に。



次に俺が顔をあげた時、視界はもう霞んでいなかった。
あんなにずっと視界は濁っていたのに。

「…千歳…まだ戻れるで、テニス部に…」

白石も泣いてた。
俺を抱きしめたまま泣いて呟いた言葉は優しくて、また泣けた。



俺はもう一度神を信じてよかと?

ねぇ―――…






「…ちとせせんぱい」






…昨日も聞いた、聞きなれた声。

「ざい、ぜん…」

白石がほっとしたような顔で声の主を見上げた。
が、すぐにその表情が凍りついた。



俺の後ろにいるはずの財前。
ゆっくり振り向いた。

見慣れた黒髪。
少し痩せた肩。
昨日も見た姿だったけど表情は暗い。

「…せんぱい、が…しあわせならって、おもって…きょうりょくしたんに…」

電気もついてない薄暗い部屋のせいかと思った。
だけどその不安定な声音はいつもと明らかに違った。
いつもの少し小馬鹿にしたような笑顔が見たい。

「せんぱいがしあわせやないんやったら…おれはどないしたら、ええん…?」
「財前!もうええんよ!もう終わったんや!」

白石がやけに慌ててる。

どうしたんだろう?

俺はただ佇む財前の顔だけを見上げてた。
言葉もなく、ただ見つめるだけ―――



「せんぱい…しにたいんでしょ…」



『お前がそんなやけん俺は…死にきれんとよ…』



昨日財前がいる俺の部屋から去り際に呟いた言葉がフラッシュバックする。

「だいじょうぶ…ひとりではいかせへんから」

財前が、しゃがみこむ俺の目線に近づいてきた。
視界の隅できらっと何か光った、気がした―――――



俺の胸にかかる財前の体重。

ああ…財前の体温だ。
心地いいな…
少し高めの君の体温。
久しぶりだ。



「財前…ッ!」



白石の悲鳴が聞こえる。



財前がゆっくり俺から離れた。

離れて欲しくない…

手を伸ばして財前の腕を掴んだ。

掴んだ手の先には、一本の鋭いナイフ。
赤い。



―――俺の血



認識した途端にわき腹が熱を持った。
もう一度財前の手からナイフが振り下ろされる。
今度はそのナイフは俺の胸を貫いた。



不思議。
痛くない。
熱い。

音も聞こえないし、全てがスローモーションみたいだ。

「おれもすぐいきますから、」

財前のその言葉だけ、聞こえた。
次の瞬間俺の胸に刺さっていたナイフは抜かれて、財前はその血塗れの刃で自分の首を掻き切った。

視界が赤く染まる。

目の前の財前がゆっくりと倒れたのを見届けて、俺もその横に倒れた。



「ざ、財ぜ…ッ!千歳ぇッ!」

白石が駆け寄ってくる声が、音が、聞こえる。
何だかぼんやりして、何言ってるのか聞こえない。
救急車だとか、助けを呼ぶとか、何とか…
とにかく白石は部屋を大慌てで出て行ったみたいだった。






…部屋に残されたのは俺たちだけ。



財前。



「…や、っと…2人になれた、ばい…」

掠れた声で財前の髪を撫でる。
財前も途切れそうながら意識は残ってるみたいで、ゆっくり目を開けた。

「ちと、せ、せんぱ…ごめ、なさ…」

泣くなよ。
だって俺、今幸せなんだ。

「お前がいてくれて…よかった…」

意識が遠のく。
財前も、目を開けてるのも辛そうだ。

その前に言わなくちゃ。

やっと気付いた真実を。



「ひか、る…あいしてる………」



聞こえた?

財前…

財前のつぶられた目から涙が落ちた。

「わらって、光…」

最後はお前の笑顔がいい。
大丈夫、俺の視界は今鮮明だから、ちゃんと見える。



ゆっくり、財前の口端が持ち上がったのを見て、俺も笑った。



なぁ財前。俺これで良かったとよ。



酷い夢みたいな日々だったけど

神は死んだと思ってたけど

最期にもう一度笑えたから

最期にこんな景色を見せてくれたから



カーテンの隙間から青空が見えた。





あおぞら
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